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August 24, 2005

個の戦線

 昨日「本多勝一が嫌い」と書いたついでの話ですが、その本多勝一や同じく私が嫌いな小田実や坂本龍一あたりと比較的仲がよいジャーナリストの辺見庸、私は何故か彼は好きです。正確には彼が書くものが好き…です。彼の書く文章は、アジテーションでありながら叙情的で、レトリックを多用しながらも主旨は明快です。私の好きなアジテーター、谷川雁ほど叙情的ではありませんが、オルガナイザーの資質を感じます。そして何よりも、組織とか運動とかを口にする以前に「個人の意思」「個人のあり方」が前面に出てくるところが、私の感受性を刺激します。
 講談社から文庫化されたのを機会に、「永遠の不服従のために」「いま抗暴のときに」の2冊を読み返してみましたが、その内容はある意味でシンプルかつストレートなもので、ある種の人たちにとっては「単純な反体制」としか感じられないでしょう。でも、「外在する不可視の監視・暴力組織と自己体内の神経細胞との関係性、内なる自己抑圧システムを感じる瞬間」「個の戦線、思想や表現が社会の中で肉体を獲得するかどうか」…などに拘る彼のスタンスは、私は「ミギ、ヒダリ」といった図式以前の、もっと根源的な「個vs社会」を考える上で、重要なものだと思ったりしています。私が「市民運動」「環境運動」のような抵抗形態があまり好きではなかったり、新党を結成した田中康夫のように政治力学に身を置く行動形態がなんとなく嫌いだったりするのは、いずれも「社会の変革」を「集団が持つ力」を利用して行う…という部分が、あまりにも前面に出過ぎるからなのかもしれません。何かを変える…ための方法論としては別に間違っていないのでしょうが、それよりも私には、「個の戦線」というスタンスの方が生理的に合っています。
 ポスト団塊世代として70年代前半あたりから様々な議論の場に身を置いた経験から見ると、人が何かを為そうとする時、まず「個人のあり方」から考える人って意外と少ない…のが実態です。以前書いたように、私は自己批判とか自己変革などの言葉(サヨク用語)は反吐が出るほど嫌いです。しかし、自己のもっとも深い部分と現実の社会(社会システムや政治システムを含む外在するあらゆるもの)との関わりを掘り下げてゆく思想的営為は、別の意味で重要だと考えます。
 私は若い頃から、アジアの一部、例えばインドやバングラデシュ、タイやミャンマーの辺境部などを旅行するたびに「コロニアリズム」について考えさせられてきました。しかし、辺見庸の「もの食う人びと」を読んだ時、完全に「やられた」…と思いました。アジアを自分の肉体で感じ、自己の肉体でアジアの社会と対峙する…という彼の手法に衝撃を受けました。「もの食う人びと」は、ルポルタージュである以前に、また社会問題に対する彼の姿勢(時にはサヨクと批判される)に対する評価を考える以前に、「自分と社会、自己と他者、自己と世界…の関わりを追求するための方法論」として感銘を受けた記憶があります。

投稿者 yama : August 24, 2005 05:08 PM

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