WS30 の世界        

 
HOME
Mail

人の能力を測る物指   〜知能と教養


 「知能と教養」って、実にいやなタイトルですね。「人間は頭のよさと人格とは無関係」というのが世間一般の通り相場です。第一、「頭がよい」ということは逆に「揶揄」の対象にすらなる部分があります。偏差値の高い東大を卒業した官僚達に、いかに「おバカ」が多いかは、昨今の外務省や農水省の高級官僚を見ているとよくわかります。
 むろん私は「学歴」なんて人間性とも社会性とも無関係だと思っています。でも学歴は無関係でも「教養」は人間性と無関係だとは思いません。また、仕事を遂行する能力は、明らかに知能と関係があります。
 自営業の私は、自分のオフィスで時々スタッフやアルバイトを募集します。いろんな学歴の方や資格所有者が面接にきてくれますが、人を選ぶのは非常に難しいことです。損体験や普段の人付き合いを通して考えた「人間の能力」の問題を書きます。
 ところで本稿は、「自分のことは棚に上げて…」書いたものです。従って「誤字だらけの下手な駄文かいてるヤツが偉そうなこと言うな…」という批判は、ご遠慮願います(笑)。




■知能や知識量は人の優劣を測る物差しではない。しかし…

 こうして文字にするのもバカバカしいくらいに、あまりにも当たり前のことですが、あえて最初に書いておきます。人間には様々な能力があり、駆けっこが速い人もいれば、絵の上手な人もいます。楽器演奏が上手い人もいます。知能なんてものは、そういった「あまたある人間の能力の1つ」に過ぎません。
 誤解を受ける可能性を承知で過激な表現をすれば、「頭が悪い」という人は「足が悪い」人と同じように考えられるべきです。実際のところ私は足が悪いのですが、だからといってそれが理由で「人間としてのレベルが低い」などとは思っていません。頭が悪い人も同じです。何らかの理由があって知能が劣る人は、たんたんと事実を受け入れればよいのです。知能などというものは、たくさんある人間の能力の1つに過ぎないのです。
 でも、運動神経に優れているということが人間の非常に重要な能力であるのと同じように、知能指数が高いこともやはり人間の重要な能力です。「あまたある人間の能力の1つ」であることは確かです。人間性判断の基準ではないからといって、知能がよいかどうかを必要以上に軽んじるのもヘンです。
 また、知識の量は仕事を遂行する上で重要なバックボーンになります。私のオフィスは、ソフト開発やWebサーバーシステムの開発、Webコンテンツの制作、雑誌の技術記事や単行本の企画など様々な仕事を行っていますが、何をやるにしても知識はないよりもあった方がいい。しかも、直接仕事に関係の無い知識もできるだけ広範囲に持っている方が役に立ちます。
 つまり、知能は人間の能力を測る物差しにはなり得ませんが、ある種の仕事の遂行能力を測る物差しにはなると考えています。

■知能指数って何だろう?

 ソフトウェア開発という仕事を例に取りましょう。経験的に見て「頭がよいかどうか」「幅広い教養を持っているかどうか」は、優秀な開発者になるための最大の要素です。プログラムのコーディング技術が優れているかどうかは、二の次です。というのも、プログラムのコーディングなんて、ある程度時間をかければ誰でも簡単に覚えられるからです(センスは必要ですが…)。
 むしろ必要なのは「状況に対する適応能力や応用能力」、そして「幅広い教養」です。教養については後で語るとして、ここでは「状況に対する適応能力や応用能力」について書きましょう。私はこれこそが「知能」だと思っているわけです。
 私は「知能テスト」についてかなり真剣に調べたことがあります。「知能の定義」や「知能テストの種類と妥当性」について、いろいろな文献を調べてみました。詳細には触れませんが、そうやって調べた結果、「知能」というもに対するもっとも妥当な定義は、次のようなものだということを納得しました。
「知能とは学習する能力、学習によって得た知識や技能を新しい場面で利用する能力であり、その得た知識により選択的適応をすることである」
 これは、アメリカ心理学会による包括的な定義です。ほぼ妥当な定義だと思います。
 さて、世間一般によく使われている知能テストで、本当に知能を測ることができるのでしょうか? 答えとしては、妥当性や信頼性の高いテストならやはり知能を測ることができそうです。しかし1種類のテストで、被験者の知能のすべてを測ることはできません。その知能テストが測ろうとしている知能は測れるけれど、その他の知能は測れない…ということは確かにあるようです。だから1つのテスト結果だけを鵜呑みにするのは間違っています。特定のの知能検査で測ることのできない知能もあるわけです。
 いずれにしても私は、信頼できる知能テストの結果測られる「知能」というものを、ある程度人間の能力の尺度にしてもよいと考えています。
 さて、ここでは「モラル」の話は、あえて無視します。モラルは別の物差しであり、語る場が違います。

■教養について

  次は教養についてです。ソフトウェア開発という仕事では、「頭がよいかどうか」「幅広い教養を持っているかどうか」が、優秀な開発者になるための最大の要素だと書きました。つまり、プログラムというのは、要するに「何らかの機能を実現する」ことです。絵アタシのオフィスの場合、クラインアントの業種や開発するプログラムの機能は実に様々です。よくある経理など特定業務向けのシステムを開発することもあります。ゲームを作ることもあります。Webを使ったEコマースのサーバーを構築することもあります。こうなると、自分が経験したことの無いことも含めて、世の中の仕組みや既存システムの成り立ちや背景、世の中の常識など、広範囲に知っていればいるほど有利です。この「世の中の仕組みや既存システムの成り立ちや背景に関する広範囲な知識や常識」が、「教養」だと思います。さらに付け加えれば、人と人との関係や、人があるべき姿についての知識も、教養の中の重要な部分です。  「教養」などいう言葉は、なんとなく時代錯誤的に捉える人も多いでしょう。でも、他に適当な言葉が見つかりません。
 「知識」と「教養」は微妙に違うような気がします。なぜなら教養にはならない知識もあるからです。でも、知識は、それがどんなものであっても、ないよりはあった方が絶対によいことは確かです。例えば詰め込み型の受験勉強は無意味…という人は非常に一般的な意見となっていますが、私は無意味だとは思いません。私は無味乾燥な受験勉強の中から多くの知識を学びました。受験勉強をするくらいなら、伸び伸びと遊ぶべきだという意見も妥当ですが、伸び伸びと遊んでなおかつ受験勉強をやってもよいと思います。
 受験勉強は、「大学に行くため」であれば、ほとんど無意味に近いものです(個人的な考えですが)。でも、教養を身につけるためと考えれば、それほど無駄なものではありません。


■立花隆氏のテスト

  私には、「人の能力を測るテスト」として非常に気になる事例を知っています。それは立花隆氏が、自分のアシスタントを募集するにあたって実施した問題です。
 この問題は、「年齢学歴不問・主婦可」という条件で、朝日新聞に募集広告を出したところ500人以上の応募があったので、それをなんとか21人に選別し、さらにその人たちの知的水準をはかるために行った筆記試験です。
 問題は次の3問から成っています。

第1問 歴代大蔵大臣の名前をできるだけあげよ(姓だけでもよい)
第2問 科学者の名前をできるだけあげよ(和洋、時代、ジャンルを問わない)
第3問 次の人々の職業、肩書きないし仕事のカテゴリーを述べよ(1人2点/100点満点)

 鎌田慧、米沢登美子、スパイM、川島雄三、石川六郎、平岩外四、影山光洋、C・L・ゲーディス、吉田秀和、ゲーテル、森嶋通夫、山村暮鳥、米山俊直、幣原喜重郎、松井孝典、ウィルヘルム・ライヒ、那野比古、瀧口修造、フォン・ノイマン、伊藤隆、古井喜美、ロバチェフスキー、チョムスキー、イヨネスコ、ジョン・ケージ、井筒俊彦、ボリス・ヴィアン、清岡卓行、フランシス・ベーコン、日高敏隆、ネフェルティティ、松野頼三、トマス・アクィナス、ウィリアム・ジェームズ、辻政信、児島襄、中村元、ファインマン、フリッチョフ・カプラ、スウェーデンボルグ、M・エリアーデ、岸田秀、高畠通敏、ラス・カサス、アレン・ダレス、キュブラー・ロス、渡辺格、ケイト・ミレット、伊谷純一郎、ガルシア・マルケス。

 感心したのは第3問です。これは、人が持つ「教養」を知るために、実に上手く考えられた問題です。別に難しいことを聞いているわけではありません。作家の著作内容や思想家の思想の内容、科学者の業績の内容等について尋ねているわけではありません。ただ「職業、肩書きないしは仕事のカテゴリー」を聞いているに過ぎません。にもかかわらず、これだけ広範囲な人間について「どんな人か」を知っているということは、非常に幅広い教養が要求されると思います。時代も、古代エジプトから同時代人にまで及びます。ジャンルも、科学者から芸術家、作家、政治家など、あらゆるジャンルの人を含んでいます。

 ※無関係な話ですが、私は立花隆と言う著述家を、あまり好きではありません。

 ちなみに自分でやってみたら、恥ずかしい話ですが31人しか答えられず、残り19人の中には名前さえ知らない人が11人もいました。私はここで31人しか知らなかったことを、本気で「恥ずかしい」と思っています。

■ネフェルティティ

 例えば「ネフェルティティ」。古代エジプトの女性で、1912年に胸像が発掘されています。私はエジプトの有名な女王だとばかり思っていました。ところが、調べてみると女王ではありませんでした。
 ネフェルティティは酒と女に溺れた古代エジプトの王、アメンホテプ3世の息子4世(後のアクエンアテン)に嫁いだ女性です。即位した当初のアメンホテプ4世は,太陽神アトンを祀る新しい宗教の育成に努力しました。ところが当時、確固たる権力を誇っていたアメン神の神官たちの妨害にあい、即位5年目にテル・エル・アマルナに遷都します。これを機会にアメンホテプ4世は名をイクナートンと改め、アメン神など旧来の神々への信仰を禁じる宗教改革を行いました。ネフェルティティは、夫が唱える新しい宗教の熱烈な支持者となりました。そしてアトン信仰の布教には、彼女の美貌が大きな役割を果たました。ネフェルティティは、「古代で最も美しい女性の1人」ともいわれているそうです。

 こんな話は知っていても、別に人生で何の役にも立たないかもしれません。でも、エジプトに旅行する機会があれば、こうした知識があるせいで楽しいことがあるかもしれません。詳しい話は省きますが、ネフェルティティはあのツタンカーメンとも関係があります。ツタンカーメンの墓に行くことがあれば、ネフェルティティのことをきっと思い出すでしょう。

■余談

 ところで、立花隆氏の試験にも出てくるイヨネスコは、ベケットやブレヒトと並ぶ劇作家の1人です。彼は、1950年代に戯曲を通して新しい世界観を提示しました。渋谷・公園通りのライブホール「ジァンジァン」で、今は亡き中村伸郎がイヨネスコの代表作「授業」の長期公演を行っていたことはよく知られています。私は、3回ぐらい見に行きました。
 「ジァンジァン」自体が1998年に惜しまれながら無くなってしまいましたが、非常に残念に思いました。「ジァンジァン」で見た演劇では、劇団グループ・ナック企画の「ポンコツ車と五人の紳士/小さな家と五人の紳士」なんてのも印象に残っています。

 今日もまた、思いつくままに支離滅裂の与太話を書きました。気が向いたら、そのうち読み直して、ちゃんと書き直します。気に入らなければ削除します。