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<title>WS30の世界</title>
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<description>　　　　～SINCE 2001</description>
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<copyright>Copyright 2011</copyright>
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<title>デニス・リッチーの死…　2011年</title>
<description><![CDATA[<p>　今年も、まもなく終わろうとしています。2011年は激動の1年でした。いまだ事態が収束していない震災や原発事故、世界を見ればアラブ諸国で民主革命が相次ぎ、欧州は金融危機に見舞われました。そして個人的には、ある種の「流行作家」であったスティーブ・ジョブズの死よりも、UNIXとC言語の生みの親であり、70年代以降のコンピュータの世界に劇的な革新をもたらしたデニス・リッチーの死に、ひとつの時代の終わりを感じた年でもあります。UNIXとC言語が存在しなければiOSもAndroidも存在しなかった、という事実に、あらためて思いを馳せることになりました。デニス・リッチー、ブライアン・カーニハン共著の「プログラミング言語C」は、現在30代後半より上のプログラミング技術者なら、読んだことがない人はいないほどの定番テキストです。</p>

<p>　あらためて繰り返すまでもなく、デニス・リッチーはUNIXとC言語の開発者です。1967年にAT&Tベル研究所に入った彼は、1969年頃から、DECのミニコン上で走る独自OSの開発をスタートします。1971年頃にはアセンブラで書かれたUNIXの原型が完成し、さらに、これは1973年頃にはC言語に書き換えられて現在の形になります。<br />
　デニス・リッチーは、ベル研入所直後からMULTICSプロジェクトに参加し、BCPL（Basic CPL）開発に携わります。その後、盟友ケン・トンプソンがBCPLからB言語を開発する作業に参加、そのB言語ベースに今度は自らが中心となってC言語を開発しました。</p>

<p>　1970年代以降のコンピュータと応用技術の発展史を俯瞰したとき、とてもではないけれど、「UNIXとC言語の開発者」と簡単に書き捨ててしまうことはできません。「UNIX」と「C言語」、もしこの2つが存在しなければ、現代のコンピュータとその関連システム、さらには応用製品、電子機器のほぼすべてが存在しないといっても過言ではありません。<br />
　UNIXはもともとローコストで、多様なマシンを動作対象として想定していました。そして、UNIX上で多彩なシステム、ソフトウェアを動作させるように作られていました。この優れた設計思想があったからこそ、UNIXからは、これほどに多くのOSが派生したのです。UNIXから派生したOSは、現在動いているコンピュータシステム及び電子機器のオペレーティングシステムの中で、大きなシェアを占めています。FreeBSDをベースとするMacOSやiOSもUNIX系列です。Linuxから派生したAndroidもまたUNIX系列です。さらに面白いのは、Android用ソフトは基本的にJavaで開発し、iOS端末用ソフトはObjective-Cで開発します。JavaもObjective-CもC言語の子供達です。現在、社会やコミュニケーションのあり方を変える万能のツールのように言われているスマートフォンやタブレットの全ては、デニス・リッチーが開発した「UNIX」と「C言語」の上に存在しています。<br />
　また、現代の社会システムやコンピュータ端末のアプリケーションを支えるクラウド・テクノロジーも、その多くをUNIXとその派生OSに依存しています。サーバー用OSのシェアを見れば、いまだに50％以上がUNIX系です。Googleが数十万台のLinuxサーバを接続してクラウドを構成していることは、よく知られています。サーバー用ソフトウェアも同じです。もしC言語がなかったら、perlもruby もpython も作られなかったでしょう。<br />
　つまり、iPhoneもiPadもAndroidフォンもタブレットも、そしてこれら端末で利用するソフトウェアやGoogleなどのクラウド系サービスも、そのOSと開発言語のすべてがデニス・リッチーが成し遂げた仕事の上に成り立っているものです。</p>

<p>　デニス・リッチーが残した非常に印象深い言葉があります。「私がひそかに満足していることのひとつは、オープンソースの多くのものが、私が寄与したコードに基づいていることです…」（Cマガジン1999年10月号、「偉大なるプログラマからのメッセージ」）<br />
　彼は自分の成し遂げた業績に驕ることなく「ひそかに満足」というささやかな心情を述べ、さらに「私が開発した」とは言わず「私が寄与した」と謙虚に語っています。<br />
　起業することもなく、ライセンスを高値で売ることもせず、技術者としての人生の大半をベル研で過ごし、コンピュータ技術の発展に尽くしたデニス・リッチーは、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツらとは根本的な部分で異なる人間だったようです。</p>

<p>　現代のコンピュータ社会の発展に、計り知れないほど大きな貢献を果たしたデニス・リッチーですが、その死はひそやかでした。2011年10月12日、ニュージャージー州の自宅で1人亡くなっているのが友人によって発見されました。死亡したのは10月8日だったそうです。そして彼の死は、Google社のロブ・パイクによってGoogle+上で発表されました。享年70歳、ひとつの時代の終焉を感じさせる死でした。合掌…</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/12/2011.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Mon, 26 Dec 2011 17:31:51 +0900</pubDate>
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<title>スティーブ・ジョブズとは何者だったのか？ （3）</title>
<description><![CDATA[<p><strong>iPhoneのオリジナリティとiOSの将来性</strong></p>

<p>　ところで、先に挙げた2011年7月のOS別シェアには、実は続きがあります。Windows。MacOSに次ぐのは以下のOSです。iOS 3.00%、Java ME 1.11%、Linux 0.91%、Android 0.81%という順です。iOSの伸長が目立ちます。<br />
　近年のAppleの快進撃は、ジョブスがApple社に戻って以降のiOS搭載機器、すなわちiPod、iPhone、iPadの爆発的な売れ行きによるものです。そのiOS搭載機器はここ数年爆発的にシェアを伸ばしてきました。しかし、これはおそらく過渡期的な姿でしょう。今後も過去数年のようにiOS搭載機器が市場で伸びていくという保証はまったくありません。<br />
　いずれにしても、2001年のiPod classic発売以降、とりわけ2007年のiPhone発売以降のビジネス展開については、「おみごと」と言うしかありません。しかし、iPhone発売から5年が経ち、iOSのビジネスモデルが持つ優位性は失われつつあります。</p>

<p>　まずはiPhoneの先駆となったiPodです。DAP（デジタルオーディオプレヤー）としてのiPodは、もともと目新しいガジェットではありません。市場で先行したのは言うまでもなくSONYのWALKMANであり、韓国メーカーの多彩な製品群でした。iTuneとの組み合わせによるビジネスモデルが当たりましたが、現在は1年ほど前からは好調な売り上げが復活したWalkmanと熾烈なシェア争いを繰り広げています。今後もiPodがDAPのデファクトスタンダードである保障はどこにもありません。</p>

<p>　現在、ジョブズの最大の功績として語られるiPhoneも同じです。今後は徐々に、市場における優位なポジションを失っていくでしょう。<br />
　独自の操作性とアプリストアとの連携でNokiaやBlackBerryからスマートフォン市場でのシェアを奪ったiPhoneですが、1人勝ち状態の全盛期は終焉を迎えようとしています。既に現在はAndroidの方がシェアは大きく、しかも伸び率も高い状況です。米市場では2011年8月の全スマートフォン保有者のうち、Android搭載機の利用者が43％で、iPhoneは28％と2倍近い差がついています。AndoroidというOSの集合体で販売台数を比較するのではなく単一メーカー同士で比較しても、2011年の第三四半期にAppleはとうとうSAMUSUNGに販売台数で抜かれました。今後どこまでiPhoneが現在のシェアを維持できるかわからないし、Androidがさらにシェアを拡大してiPhoneのシェアは小さくなるというのが大方の予想です。</p>

<p>　ところで、スマートフォンの市場を先駆的に切り拓いてきた功績は、やはりNokiaやRIM（Blackberry）に帰するべきものです。そして、手のひらに乗る情報端末の小さな画面上にアイコンを並べるタッチパネル方式のUIは、PDA「Palm」あたりがずっと先駆です。私は初代iPhoneが登場する6年も前の2001年に「Palm m505」を使っていましたが、電話回線によるネット接続を除けば基本的にはUIも機能もiPhoneと同じでした。Palm以外にも似たようなUIを持つPDAはたくさんありました。携帯電話回線を装備したスマホでiPhoneとよく似たUIと言えば、タッチパネルを採用したMotorola製のFOMA「M1000」や「HTc Z」なども記憶に新しいところです。記憶に間違いがなければ、いずれの機種のiPhoneより古い時期に発売されています。<br />
　これら先行製品に較べてiPhoneが格段に洗練された機能を備えていることは確かですが、CPU、メモリ、液晶、タッチパネル、CMOSカメラなど、PDAやスマートフォンを構成するキーデバイスの技術・性能や実装技術などが格段に進歩している状況で製品化された後発機器ですから、高機能を実現できて当たり前です。携帯電話機能部分の基本デバイスである、ベースバンドチップやアプリケーションチップなども1チップ化が進み、ここ数年格段に高機能化しています。<br />
　そして、携帯電話回線上にパケット網を築いてアプリを提供するビジネスモデルなら、1999年にスタートしたiモードの方がかなり先行しています。</p>

<p>　タッチパネルを採用した先駆的なPDAといえば、1993年に発売されたAppleの「Newton」があります。手書き文字認識を採用するなどNewtonプロジェクトの先進性はあらためて言うまでもないことですが、このプロジェクトはジョブス追放後のスカリー社長時代に企画され、発売された端末です。Newtonは売れず、事業としては完全に失敗しましたが、PDAの将来性に注目した結果生まれたNewtonプロジェクトについては、これを強引に推し進めたスカリーの先見性が高く評価されるべきです。そしてNewtonプロジェクトは、後のiPod、iPhoneの母体となったものでもあります。後に、Appleがニュートンの発売を中止した後にNewtonプロジェクトを引き継いだニュートン社を、Appleに復帰したジョブスが吸収しました。さらに、iPodのOSを作成したPixo社にこのニュートンの開発メンバーがいたことは有名な話です。Newtonプロジェクトとも多少関連がありますが、1996年に発売されたPalm Pilotを見ていると、いまさらですがPalm OSの先進性とiOSとの類似性がよくわかります。</p>

<p>　さて、こうした事実をもって「iPhoneに独自技術がない」とか「iPhoneはパクリ」とか非難したいのではありません。そんなことは、実はどうでもいい話です。「ジョブズは何も発明しなかった」という言い方で、ジョブズの資質を貶める人がいますが、それもまた間違っています。</p>

<p>　iPhoneに限らず、この手の情報機器はすべてが多かれ少なかれ過去の技術資産とアイデアの蓄積の上に、「新製品」が生み出されてきました。トータルに技術が発展し、構成部品が高機能化する後発製品の方が先行製品よりも高機能、多機能なのは当然であり、また必然的に小型化が可能になるためデザインの自由度も高くなります。後発機器の方が高機能でデザイン性に優れているからと言って、別に特別なことではありません。そういう視点で見たとき、iPhoneが特に画期的な製品だとは思えないのです。<br />
　余談ですが、同じことはノートPCでも言えます。Macファンは薄型・軽量のMacBook Airを絶賛しますが、例えば三菱電機が1997年に発売した超薄型・軽量のノートパソコン「Pedion」は、当時の技術水準では世界最高の製品でした。私は欲しかったけれど、高いのでパスしました。マグネシウム・ダイキャスト筐体を採用し、約15年前に当時のA4サイズノートパソコンで世界で最薄の18mm、最軽量の1.45kgを実現したPedionの製品コンセプト自体は、MacBook Airと全く同じであったと思います。あれから10年以上も経って構成部品の大幅な機能向上が実現したからこそMacBook Airという製品が実現したのです。</p>

<p>　ところで、誰がどう見てもAndoroidはiPhoneをかなりの部分で真似たことは確かです。しかし、それをもってジョブズが「AndoroidはiPhoneのアイデアを盗んだ」と激怒するのは、PDAやスマートフォンの製品化の歴史から見て非常に傲慢な態度であり、お門違いです。iPhoneも同じく、誰がどう見ても確実にPalmデバイスを真似ていますし、NokiaやRIMからもよいところをたくさん真似ています。iTuneのビジネスモデルも先行した数多くのビジネスを参考にしています。今回iPhone4SでスタートしたiCloudに至っては、Googleが始めたビジネスモデルをそっくり真似したものでしょう。でも私は、製品進化のため、ユーザの利益のためには、それはそれでよいと考えています。真似る、参考にする…ことの許容限度を決めるルールとして、不完全なルールながらも「特許」が一応存在することにも意味があります。</p>

<p>　iPadもまた、iPodやiPhoneと同じく製品形態や機能アイデア自体は特に目新しいものではありません。タッチパネルを採用した同形状のWindowsのストレートPCなら1990年代から存在しましたし、2000年代入ってからはNECや富士通なども、主に業務用途を想定して普通にWindows機ラインアップとして普通に販売していました。当時はまだ、CPUやメモリの基本性能が低く、タッチパネルのポイント検出技術も未熟、加えて高解像度液晶は高価で、高性能化すればバカ高い価格にならざるを得ませんでした。さらに、高速のネット接続はコストが高く、3GでのMbpsレベルのネット接続はまだ実現していませんでした。だからこそ、業務用途以外では売れなかったのです。iPadは、CPUやメモリなど基本部品や構成デバイスの高機能化、低価格化が進んだ時期とうまく重なって商品化されました。そして何よりも、3GやWi-Fiによる高速ネット接続が低コストで実現する時期に商品化されたことで、コンテンツ配信が可能になり、タブレットPCにビジネス用途以外の使い途ができたのです。<br />
　iPadもiPhoneと同じくアプリマーケットとの相乗効果で販売台数を伸ばしてきました。しかし今後は、iPadもiPhoneと同じく続々と登場しつつある高性能・低価格のAndroidタブレットとの競争の中で、iPhoneと同じく当面は徐々にシェアを下げていくでしょう。<br />
　タブレット市場は2011年の上半期まではiPadの一人勝ちとなっていますが、下半期に入ってAndroidタブレットの販売が急伸しています。2011年第3四半期のタブレット市場シェアはApple iOSが1,110万台の出荷でシェア66.6%と依然として圧倒的にダントツ。Androidは450万台の出荷台数でシェア26.9%に留まっています。しかしAndroidタブレットは、前年同期の2.3%から十倍以上にシェア伸ばしています。2012年以降は、既にネットブックを利用しているライトユーザーの多くがタブレットへの買い替えを進めると見られています。タブレット市場は今後数年の内に大きく変化し、市場は何倍もの規模へと拡大していくでしょう。その今後拡大する市場の中で、iPadの優位性は徐々に薄れ、低価格のAndroidタブレットが大きなシェアを獲得していくはずです。<br />
　そういえば先日Amazonが発表したAndroidタブレット「Kindle Fire」は199ドルという価格で、Android標準機能の他に、Amazonが持つ豊富なコンテンツが簡単に利用できることから、アメリカ国内に限定すれば単一機種でiPadを上回る販売数を予想する関係者も多いようです。レノボも2万円を切るAndroidタブレットを発売しました。iPadビジネスは、iPhoneビジネスと同様に、現在確実に曲がり角に来ています。<br />
　アプリマーケットを含むビジネスモデルとしてのiOS機器は、確かにここ数年間、著しい成功を収めましたが、これが今後も持続するかどうかは全くわかりません。今後ともiPhoneやiPadがデザイン、操作性、ビジネスモデル等で市場に大きな影響力を与えていくことは確実ですが、シェアは落としていくでしょう。そして、それはかつてAppleのパソコンが辿った道と重なります。</p>

<p>　さらに、今後AndoroidがiOSに比して確実に市場シェアを高めていくと予想される理由があります。先日、こんな製品発表がありました。「カシオ計算機は20日、OSとしてAndroid2.2を採用し、アプリによって顧客/売上/予約管理などの機能を拡張できる店舗支援端末『VX-100』を発表した。同社製アプリのほか、対応アプリを開発できるソフトウェア開発キットも用意する…」（マイコミジャーナル 2011/10/20）<br />
　こうした業務用機器へのOS搭載は、現時点ではiOSではあり得ない方向性です。iPadに専用アプリを入れて業務に活用する…といった使い方はすでに始まっていますが、あくまでiPadというAppleが用意したプラットフォームを使うことが前提です。iOSを搭載した業務用機器…は現在のAppleのビジネスモデルでは絶対にあり得ません。一方で、Andoroidは広範囲に搭載製品市場が拡大する可能性を秘めています。</p>

<p><strong>ジョブズの「理念」について思うこと</strong></p>

<p>　ジョブスは「世の中を変える、人々の生活スタイルを変える」という理念を持って製品作りをしてきた…のだそうです。しかし、MacやiPhone、iPadのビジネスモデルを見ていると、人々の生活スタイルを本気で変えようとしたとは、到底思えません。<br />
　世の中を変えるためには、「誰もが、安く、製品やサービスを甘受できる」ようにしなければなりません。そのためには「競争原理が働くこと」が絶対に必要です。しかし、ジョブスがiPhone、iPadのビジネスモデルで目指していたのは、「競争原理を排除すること」でした。Apple社は、特許、しかも製品機能の本質とは無関係の特許までを振りかざして競争相手を威嚇・排除し、自社が唯一のサプライヤーとなることで、利益を確保しようとしています。</p>

<p>　現在のiOS機器とAndoroid搭載機器の関係は、1980年代のMacintoshとIBM-PCの関係と、非常によく似ています。<br />
　「スマートフォンが世界を変える」「タブレットPCが世界を変える」ためには、発展途上の貧しい国の人々も含めて世界中の誰もが製品を購入でき、サービスを受けられる方向で普及する必要があります。例えそれが先のことであっても、少なくともそうした方向性を持ち続けるべきです。イメージや本質的機能とはあまり関係のない付加価値で高値で販売して利益を確保するiPhone、iPadのビジネスモデルでは、それができるとは思いません。おそらくその役割を担うのは、現時点ですら100ドル以下のスマホ、100ドル以下のタブレットを量産することが可能なAndroidのビジネスモデルです。<br />
　iPhone、iPadをビジネスの中核に据えるAppleがいちばん恐れているのは、機能面で差がない製品を量産し始めたAndroid陣営と「価格競争」を強いられることです。だから、iPhoneとiPadは「価格以外の付加価値」を強力にアピールする以外にありません。iPhoneとiPadは、「値下げできない」製品です。例え量産によって値下げが可能になったとしても、値下げしてしまえばAndroid機との差別化をアピールできなくなるからです。Apple製品は「Cool」であるために、高い価格を維持せざるを得ません。</p>

<p>　「iPadがコンピュータを誰でも簡単に使えるものにした」と言っている人は、自分の所得、または、先進国の経済水準を基準に考えているような気がします。「誰でも」の中に、「本当に貧しい世界の人々」のことは入っていません。おそらくジョブズもそういう考えを持つ人だったのでしょう。だからこそ、製品からサービスまでを自社で完結し、あらゆる形で莫大な利益を吸い上げる「iOSビジネス」の仕組みを推進したのです。<br />
　私はコンピュータが好きです。コンピュータには未来を変える力があると思っています。だからこそ、アフリカやインドの貧しい子供たちにも、等しくコンピュータが普及して欲しいと願っています。</p>

<p>　冒頭で紹介したBlogに「…Macintosh互換機は当時こそ選択肢が増えてありがたいという気持ちが強かったのですが、これはあるまじき姿であったと言わざるを得ません。Appleの哲学と美学はまさにハードとソフトの融合から生まれていた」…と書かれています。確かにMacは互換機戦略を失敗したし、近年のiOSの快進撃はクローズドな環境にこだわったから実現しました。しかし、これは「哲学」や「美学」などといったきれいごとからそうなったのではではないでしょう。きっちりと「利益」を確保するための、必然的な結論であったのだと思います。それはかつて、PC互換機のように、絶対的な出荷台数を確保できなかったMacintoshがとらざるを得なかったプロセスで、Apple社が身をもって学んだ販売方法であったはずです。iOS搭載機器は、かつてのMacintoshとは異なり、高価であるにも関わらず絶対的な出荷台数とシェアを獲得しました。その結果が、近年のApple社のすざまじい利益と時価総額の高騰を生んでいます。</p>

<p>　ubuntuを始めとするフリーLinuxの愛用者でもある私は、以前から「GNU」の理念が拡大することに大きな期待を掛けています。オープンソース＝無償とは限りませんが、やはり低コストでOSやアプリを供給できるし、それ以上に多くの開発者とユーザが力をあわせて「よりよいもの」を作っていく姿勢とプロセスは貴重です。OSもアプリも使い方を限定すれば、極限の高機能を追う必要はありません。むしろ安価でそこそこの機能を持つ端末を広範囲に普及させる…方が、社会変革に役立つ場面が多いはずです。<br />
　余談ですが、OS Ⅹ以降のMacOS、そしてiOSのベースに使われたオープンソースOS「Darwin」は、ずっと遡れば部分的にはFree BSDがベースとなっています。DarwinもFree BSDもフリーソフトウェアとしてソースコードと共に無償で公開されており、全世界のボランティアのプログラマの手によって開発が進められているものです。意地の悪い言い方をすれば、Apple社は、開発理念から言えば金儲けからもっとも遠いところにあったはずのオープンソースOSを金儲けに利用した…という見方だって出来なくはありません（カーネルのかなりの部分にLinuxを利用しているAndroidも似たようなものですが…）。こうした経緯を見ていると、リーナス・トーバルズが、いかに高い理念と理想をもっていたかが想起されます。そう、ジョブズと較べても…</p>

<p>　ところで、近年の、ジョブズ成功の要因は何でしょうか？ パソコン分野で失敗したはずのAppleが、ジョブス復帰後に、こうまで大きな利益を上げることができたのは何故でしょうか？ そこにこそ、ジョブズの真髄、経営者のとしてのジョブスの才能、そして本当のジョブズの理念があるように思います。<br />
　一言で言えば、ジョブズ復帰後のApple社の方針、すなわちジョブスの方針は「信者を増やす」ことにあったのだと思います。「信者」という言葉にひっかかるものがあるのなら、「盲目的なAppleファンを増やす」と言い換えてもよいかもしれません。そのためにジョブズは、「カリスマ」を演じました。「演じる」という言い方は間違いかもしれません。エキセントリックで自我が肥大し、他人の目を意識しないジョブズには、もともと「カリスマ」になる素質があったし、Apple社はそうしたジョブズの存在の「広告塔」としての価値をよく心得ていたはずです。<br />
　Apple社は、同社の全てのプロダクツ、とりわけMac、そしてiPod、iPhone、iPadについて、デザイン、機能、サービスをひっくるめて「Cool」と、無条件で受け入れて賛美するユーザ、「コアユーザ」を作り出すためのイメージ戦略に全力を挙げました。そしてそれは、間違いなく成功しました。<br />
　特にこのイメージ戦略に見事に乗ったのは、iPodやiPhoneからApple社のプロダクツを使い始めた層です。<br />
　例えば68000系Macの時代からのユーザであれば、Macを礼賛するにしても、たいていは私のようにMac以外のパソコンを使った経験を持っているはずです。だから、他社のパソコンと比較する術を持っています。iPhoneについても同じで、iPhone登場以前からPDAやスマートフォンを使っているユーザであれば、冷静にiPhoneの機能について判断できます。しかし、iPodとiPhoneのヒット以降、DAPはiPod、スマホはiPhone、タブレットデバイスはiPad、PCはMacbook Air…しか使ったことがないというユーザが増えました。こうしたコアユーザは、確実にApple社のプロダクツを買い支え続け、同社が提供するサービスにお金を遣い続けます。こうしたユーザ層を確実に増やし続けたことこそが、ここ数年のApple社の莫大な利益を生み出しました。いや、見事なものです。</p>

<p>　アップルは、マスコミも味方につけました。「<a href="http://www.newsweekjapan.jp/stories/2010/05/post-1300.php"><strong>アップル番記者の罪と罰</strong></a>」…という記事を読めば、アップルのイメージ戦略の片棒を担いだマスコミの実態がよくわかります。</p>

<p>　ジョブズが亡くなった日、TVのニュース番組を見ていたら、まだ大学生ぐらいの若い男性が、ジョブズの死を悲しんで本当にTVカメラの前で涙を流して泣いていました。その男性は「iPhoneとiPadで人生が変わった、ジョブズが自分の人生を変えてくれた、憧れの人だった…」と話しながら泣いていました。私は非常に違和感を持ったのですが、そんな不思議なユーザを産み出したことこそが、ジョブズの才能であったのだと思います。</p>

<p>　私は別にAppleのプロダクツが嫌いというわけではありません。iPhoneもiPodも使っていますし、仕事場にはMacもあります。しかし機能が同じであれば、どちらが面白いかと言えば、いろいろといじって楽しめないiPhoneよりも、USBやHDMI等の汎用I/Fを備え、簡単にrootを取って自由にカスタマイズできるAndroid機の方が絶対に楽しいというタイプです。「整然」としたiPhoneの世界よりも、「混沌」としたAndroidの世界が好きです。これは、「与えられる」よりも「自分の手で何かをやる」方が楽しい…という感覚に通じるものがあります。iPhoneの世界は、Appleに全てを与えられる世界…という感覚があります。</p>

<p>　ところで、私の会社では現在、受託でも自社でもiPhone用アプリの開発・販売を行っています。自社でアプリを販売しているとよくわかるのですが、同じアプリをiPhone向けとAndroid向けに販売すると、確実にiPhone向けが売れます。Androidの方が普及台数が増えつつあるにもかかわらず、iPhone向けアプリの方が市場が大きいのが実感できます。しかも、かなり差があります。要するに、iPhoneユーザの方が「確実にアプリ、コンテンツにお金を遣う」のです。<br />
　さらにiPhone向けアプリの方が、「何が売れるか」「どうすれば売れるか」を、コンセプトしやすい。Androidのユーザ層は、あまりに雑然としていて、嗜好や消費傾向が掴みにくいのと較べ、iPhoneユーザの嗜好や消費傾向は、とてもわかりやすい。経験値として実感しています。</p>

<p>　私は、2004/8/30の日記で、次のようなことを書きました。この文を自分の日記に引用するのは2回目です。でも、あえてここで繰り返します。<br />
<hr><br />
　…Macユーザの第一の特徴が「インテリで所得が高め」だってのはよく知られているところ。アメリカのマーケット調査会社によって「Macユーザは Windowsユーザと比べて高所得で高学歴」という調査結果がしっかりと提示されています。でMacユーザは、この「インテリで高所得」に加えて「心情的反体制または自称オルタナティブ」であり、さらに「『文化』という言葉に弱い」という特徴を持つことは確実です。「Windowsのような体制派とは違う」という点にアイデンティティを見い出し、さらに「新しい文化の担い手」なんて言葉を聞くと、もう無条件で喜ぶタイプ。これって、マーケティングを考える立場からすると、「もっとも乗せやすい」ユーザ層ということになります。単純なミーハー層は流行に対する好みがどう転ぶかわからないし、ガチガチの保守派は逆に複雑なマーケティング手法を応用する余地が少ない。自らを革新的と考え、自分は流行に左右されないと自認している層こそが、実はもっとも「マーケティング手法を使って恣意的に流行を与えやすい」層であると言えます…<br />
<hr></p>

<p>　まあ最近では、iPod、iPhoneがあまりに普及したので、さすがにiOS関連プロダクツのユーザ層には多様性が出はじめています。わけもわからず単にかっこいいからといってiPadを購入し、何に使っていいのかわからない…なんてユーザもいるようです。しかし確信犯的なiOSプロダクツユーザ層の基本的な消費傾向は、未だに大きく変わってはいません。<br />
　ジョブズ復帰以降のApple社は、意識してこうした確信犯ユーザ層を作り出し、なおかつ自ら作り出したユーザ層に対して、効果的にたマーケティングを行うことで、莫大な利益を得てきたわけです。こんなやり方を成功させるなど、驚嘆すべきことです。ジョブズが、天才的な経営者であったと感心する所以です。</p>

<p><br />
この項、終わり…</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/11/_3.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Thu, 03 Nov 2011 13:25:59 +0900</pubDate>
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<title>スティーブ・ジョブズとは何者だったのか？ （2）</title>
<description><![CDATA[<p><strong>Apple社の失敗</strong></p>

<p>　ジョブスというよりも、彼が設立したApple社は、コンピュータの世界に、どんな「大きな変革」を起こしたのでしょうか。</p>

<p>　1980年代半ばまで、天才ウォズニアックが作り出したAppleⅡは、パーソナルコンピュータの代名詞でした。当時のパソコンシェアの正確な統計が手許にないのですが、1970年代の後半から1980年代初頭、パーソナルコンピュータのシェアでAppleは世界を大きくリードしていたことは確かです。この時点では、間違いなくApple社は、コンピュータ世界の変革者でした。Apple Ⅱは当初はオープンアーキテクチャであり、互換機も数多く登場しました。私の記憶にある1980年の時点の全米パソコン市場では、まだシェアトップはAppleです。ちなみに当時のシェア2位はコモドール、3位がタンディ・ラジオシャックだったはずです。<br />
　しかし、1981年にIBMがオープンアーキテクチャを採用したIBM PCを世に出します。このIBM PC用に開発されたOS、MS-DOSを搭載し、インテルのCPUが採用されていました。このIBM PCは、発売とほぼ同時にいきなりパソコン市場でトップシェアを獲得します（1983年頃に500ドルで買える「コモドール64」が爆発的に売れてシェアを獲得した時期がありましたが…）。この時期に、まずはAppleⅡが売り上げを大きく落とし始めました。<br />
　このあたりから、ジョブスが率いるAppleは迷走し始めます。AppleⅡの次機種AppleⅢで失敗したAppleは、IBM PCとコンパックなどの互換機に対抗するために満を持してLisaを投入、これがAppleⅢに続いて失敗に終わります。次いで1984年にマッキントッシュを投入してIBM PCに対抗しますが、結果的にAppleはPC互換機群に敗退してパソコン業界でのシェアをさらに大きく減らしました。<br />
　当初MS-DOSを搭載したIBM PC（PC互換機）には、やがてWindowsというOSが載せられ、特にWindows95以降は、互換機が爆発的に普及しました。一方で、販売方針で迷走したあげく事実上パソコン市場でのシェア争いを放棄したマッキントッシュとMacOSは、その後さらにWindowsに水を空けられ、シェアの差は現在に至るまで詰まっていません。<br />
　参考までに、2011年7月のOS別シェアは、Windows 87.60%、Mac 5.61%です。この数字を見れば「MacはWindows陣営の敵ですらない」というのが現実です。現在のシェアを、1970年代後半から1980年代初頭に至るパソコン市場でAppleが勝ち取っていたトップシェアと、現在の悲惨なシェア状況を比較すれば、Apple社はOSを含むパソコンビジネスを失敗した…と言う結論が自然に出てきます。Appleとマイクロソフトの両社は、ジョブス死後の現在でもよく比較されますが、パソコンビジネスにおける勝者、それも圧倒的な勝者は、客観的に見れば間違いなくマイクロソフトの方です。</p>

<p>　ご存知の通り、ジョブズはAppleの創業者ではありますが、群を抜いた技術者ではありません。AppleⅡもマッキントッシュも、そのシステムの全てをほぼ1人で開発したのは天才ウォズニアックです。そして、ガレージメーカーであった初期のAppleに投資して法人化し「企業」として船出させたのはマイク・マークラでした。むろん、AppleⅡ及びマッキントッシュの設計思想と販売方針にジョブスのアイデアが色濃く反映されたのは間違いありませんし、特にAppleⅡの開発・販売に絶大なる貢献をしたジョブスの功績は、讃えられるべきものです。<br />
　しかし、AppleⅡが失速した1980年以降、AppleⅢ、Lisa、そしてMacintoshへと移行する過程においてもジョブズは大きな役割を果たしました。この時期ジョブスのApple社における影響力を大きいものと考えれば考えるほど、現在のWindows圧倒的優位の状況を見れば、AppleⅡ失速後のジョブズの経営方針が「間違っていた」という話になります。ジョブスはMacintoshとLisaの開発部門であるスーパーマイクロ部門の責任者であり、マッキントッシュプロジェクトもスタート直後からジョブスが前面に立って製造・販売の指揮をとりました。追放以前のジョブスが立てたマッキントッシュの販売計画は、学生や教育機関向けの大幅割引販売で一定の販売実績を上げた他は、基本的に無残な結果に終わっています。<br />
　さらにジョブズは、Apple退社後に立ち上げたNeXT Computerでも、主力製品であるワークステーションのコストパフォーマンスの低さから、販売実績を上げることは出来ませんでした。ただ、NeXT Computer時代に開発したOPENSTEPについては、その後MacOS Xとなって現在のMacに引き継がれています。<br />
　こうした事実を見れば、ジョブスに「時代の変化を見抜く目がなかった」、またジョブスが「パソコン市場の基本的な方向性を予測できなかった」…という評価を与えざるを得ません。</p>

<p>　ところで、ジョブズに対する評価のひとつとして、彼がコンピュータを「ビジネスの道具」から「創造するための道具」に変えた…という言説もよく見られます。しかし、少なくとも初期のAppleⅡは、趣味やゲームのユーザ以外は、あくまでビジネスや科学計算の道具として売れました。特に大学や研究機関によく売れたのです。第一、70年代のAppleⅡのCPU能力、画像処理能力では、クリエイターが仕事で使うにはちょっと無理がありました。初期のAppleⅡには、ワープロやプレゼン資料作成用途すらありませんでした。かろうじて表計算ソフトが一般の人でも利用していたぐらいです（80年頃には「AppleWorks」というオフィスソフトがありました）。<br />
　ジョブズがAppleⅡをコンセプトした時点、またはlisa、Macintoshをコンセプトした時点で、「創造するためのパソコン」をイメージしていたわけではありません。むしろジョブスが在職していた当時、Macの初期の販売戦略は、当初はビジネス分野で普及し始めたIBM PCをライバルに想定したものです。また、落ち込んだMacの販売をてこ入れするために、マイクロソフトのビル・ゲイツに「Microsoft Office」のMac対応版の販売を依頼したのは他ならぬジョブス自身です。<br />
　MacintoshがDTPやデザインのプラットフォームとしてクリエーターの間に普及したのは、パソコンの最大の市場であるビジネス用途分野をIBM PCとMS-DOS／Windowsに奪われ、結果的には苦し紛れにニッチな分野での普及を図った経緯によるものです。加えて、クリエイターというユーザカテゴリーが、Appleのイメージ戦略のターゲットになりやすかったためでもあります。そして、マッキントッシュがDTPやデザインのプラットフォームとして普及していった時期は、ジョブズがAppleを退職していたスカリー社長時代であり、このあたりの販売戦略には事実上ジョブスは関わっていません。</p>

<p><strong>パーソナルコンピュータ普及の功績</strong></p>

<p>　誰かがジョブス追悼文の中で書いていたように、「コンピュータは20世紀最大の発明のひとつ」だと、私も思います。特に「パーソナルコンピュータ」は、社会の仕組みや個人の生活のあり方まで変えてしまう、そんな存在だと感じていました。パーソナルコンピュータの製品化の歴史、普及の歴史において、特に70年代にAppleが果たした役割は非常に大きいことは、紛れもない事実です。AppleⅡは、「パーソナルコンピュータのあるべき姿」を私たちに提示し、日常生活の中に普通にパーソナルコンピュータが存在する未来を予感させてくれた製品のひとつでした。<br />
　しかし、残念なことに70年代におけるパーソナルコンピュータは、まだまだ「社会を劇的に変える」ほどには普及をしていませんでした。そしてその絶対的機能も不足していました。AppleⅡがパソコン市場でトップシェアであった70年代は、パーソナルコンピュータがいずれ社会を変革する原動力になるだろうと、ジョブスを始めとする多くの人が確信してはいましたが、現実には誰でも買えるほど安価な製品ではなかったし、ビジネス現場で実務に使えるようなアプリケーションもほとんど存在していませんでした。<br />
　こうして見ると、パーソナルコンピュータが「社会の発展」や「社会の仕組みの変化」に大きな役割を果たし始めたのは、一気に普及が進んだ80年代です。</p>

<p>　パーソナルコンピュータがこれほど身近になった21世紀の現在だからこそあらためて思うのですが、パーソナルコンピュータの存在と機能が世界を変えたのだとしたら、それは「世界中に広く普及した」からです。<br />
　そして歴史的に見れば、「パーソナルコンピュータを世界に広く普及させた功績」は、Apple社よりも、パーソナルコンピュータを一気に安価なものにするきっかけを作った「IBM PC」という製品とその開発チームの方がずっと大きいと思います。パーソナルコンピュータを安価に提供して「個人でも低所得の新興国ユーザでも使えるようにした」ことが、本当のイノベーションです。事実、「パーソナルコンピュータ」という言葉は、IBM PC互換機そのものを意味する言葉として社会に広まりました。<br />
　1981年に発売されたIBM PCは、早期参入実現のために市場で入手可能な部品だけで構成され、周辺機器の普及のためにオープンアーキテクチャとして回路図やBIOSのソースコードを各社に公開しました。さらに、主力のオペレーティングシステムであるPC DOSを「MS-DOS」の名称でマイクロソフトから各社にOEM供給する事を認めたため、誰もが簡単にパソコン製造・販売ビジネスに参入することを可能にしました。このビジネスモデルこそが、パソコンを一気に低価格化する原動力となりました。今日、台湾や中国のメーカーが低価格PCを量産し、それが発展途上国も含めて世界中に普及しているのは、やはりIBM-PCの優れたオープンアーキテクチャ設計思想のおかげです。</p>

<p>　翻って、1980年代半ば以降のApple社はこのIBM PCとは全く逆の道、すなわちクローズドなアーキテクチャのMacを「ブランド力とイメージ」で高く売る…という道をひた走りました。現在のiOS機器と同じです。一時期、苦し紛れに互換機戦略をとったものの成功せず、販売戦略は迷走を続けました。<br />
　1990年代から2000年代前半にかけては、MacintoshはWindows機と比較してバカ高い価格設定でした。本体価格だけでなくメモリなど内部の増設・交換用パーツから周辺機器に至るまで、非常に高価でした。高価なものを売るために、とりわけイメージ戦略を重要視しました。その結果「利益の確保」という面では「一定の成功」は収めましたが、実際の普及ベースでは、Windows95以降はWindows陣営に大きく水をあけられることになったのです。</p>

<p>　そして、こうした考え方の延長線で見れば、今後タブレットデバイスも含めて安価なコンピュータの普及により大きな役割を果たすのは、特注部品、特殊なI/Fやコネクタを多用するiOS搭載製品ではなく、汎用部品と汎用I/Fで構成されるAndoroid搭載製品である…という結論が容易に見えてきます。</p>

<p>　Macを礼賛する人の多くは、Macの独特なユーザインタフェースと操作性を絶賛し、一度Macを使ったら絶対にWindowsの世界には戻れない…などと言います。UIは感覚的な問題が大きく良否判断は個人差がありますので、どう感じるのも自由です。ただ私は、Windows登場以前に長い間「無機質なMS-DOSのUI」と「遊び心があるMacのアイコンベースのUI」を併用してきました。そして、DOSがWindowsに変わってからも、MacintoshとWindows機を併用して毎日の仕事をこなしてきました。しかし、どの時代でも別にどちらのUIが優れているかなどと特に考えることもなく、必要に応じて普通に両者を併用してきました。<br />
　実際にMacの独自のUIと操作性が、本当にそこまで万人にとって優れたもの、とりわけDOSに対する優越性があったのなら、少なくともMS-DOSの時代に、MacintoshはIBM PCとその互換機を圧倒していたはずです。日本市場で見ても、PC9800シリーズは完全にMacにとって代わられていたでしょう。しかしそうはならなかった…、どころか結果は逆だった、というのが事実です。ましてやアイコンベースのUIを採用したWindwsの登場以降は、MacintoshはWindowsに全く太刀打ちできませんでした。それが、現在のOS別シェア、すなわち「Windows 87.60%、Mac 5.61%」などという数字につながっています。厳然たる事実として、Macintoshは売れていないのです。過去にも、Windows機と拮抗するほど売れた時期は一度もありませんでした。<br />
　だいたいUIなんてものは、慣れの問題が大きく、実際はどれも大差がありません。MacもWindowsも大差ないばかりか、最近はLinuxだって似たようなものです。私は現在、Ubuntu11.04を使っていますが、これも非常によくできたUIです。初期のLinuxのX Windowとは比較になりません。結局、キータッチベースのUIだろうと、アイコンとマウス操作をベースとしたUIだろうと、マウスが1ボタンだろうと2ボタンだろうと、画面タッチ型のUIだろうと、慣れれば何でも同じです。そして言うまでもないことですが、アイコンとマウスで操作するUIも画面タッチ型のUIも、Apple社が最初に開発したというわけではありません。</p>

<p><a href="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/11/_3.html#more">スティーブ・ジョブズとは何者だったのか？ （3）</a>へ続く…</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/11/2_2.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Thu, 03 Nov 2011 13:24:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>スティーブ・ジョブズとは何者だったのか？ （1）</title>
<description><![CDATA[<p>　Apple創業者のスティーブ・ジョブズが死去して、1ヶ月近く経ちました。依然として、リアル社会でもネット上でも、ジョブズの死を惜しみ、嘆き、業績を称える声が溢れています。自伝ははつばいされるやいなやベストセラーとなり、書店には自伝以外にも「ジョブスの言葉」「ジョブズの教え」的な書籍が山積みになっています。<br />
　米カリフォルニア州は、10月16日を「スティーブ・ジョブズの日」とすることに決めたそうです。パロアルトでクリントン元米大統領ら著名人が多数出席してスティーブ・ジョブズ氏を偲ぶ追悼式典が行われた…とのニュースもありました。</p>

<p>　CNET Japanブログで「<a href="http://goo.gl/5DdK1"><strong>スティーブ・ジョブズからの贈り物</strong></a>」という一文を見つけたので、その一部を引用させて頂きます。<br />
「…AppleはSteve Jobsの類い希な情熱と信念によって導かれてきました。それは決して儲けるためではなく、人々の生活をより豊かにするべく全身全霊をかけて行われたことです」<br />
「…Jobsの思想と業績は、あらゆる所に影響を及ぼしています。もし彼がいなかったら、Androidやタブレットは今の形にはならず、音楽配信システムはどれも鳴かず飛ばずだったでしょう。もちろんMacも無いのだから、PCがどのように進化していたのか想像すらつきません」</p>

<p>　現在のApple社の利益と株式の時価総額を見る限り、復帰後のスティ－ブ・ジョブズが「図抜けて優秀な経営者」であったことは疑いようがありません。しかしそのジョブズは、「金儲けではなく、人々の生活をより豊かにするべく全身全霊をかけて行なった人」なのでしょうか？　ジョブズがいなければ「Androidやタブレットは今の形にはならなかった」のでしょうか？　「MacはPCの進化に大きな影響を与えた」のでしょうか？<br />
　さらには、彼の生前・死後を問わず多くの人が口を揃えて言うように、ジョブズは「IT業界のイノベーター」だったのでしょうか？　ジョブズにはIT技術と人間の関わり方について本当に「未来が見えていた」のでしょううか？　ジョブズは常に製品に対する「明確なビジョン」を持っていたのでしょうか？　ジョブズは我々に「コンピュータの本質」を教えてくれたのでしょうか？　そしてジョブスは「世界を変えた天才」だったのでしょうか？ </p>

<p>　知っている範囲での、コンピュータ業界におけるジョブズの軌跡、創立以降のApple社の発展経緯を見る限り、私はけっしてそうは思えません。</p>

<p>　むろん、ガレージメーカーからスタートしたApple社創立の経緯は、夢のある素晴らしい物語でした。そこで生み出され70年代末にアメリカのパソコン市場を席巻したたAppleⅡ、この物語の中でジョブスが果たした役割は、まさにパーソナルコンピュータ史上に輝くものでした。<br />
　そして1997年のApple復帰後に限定すれば、ジョブズが優秀な会社経営者であったことは事実です。「晩年のジョブス」が、カリスマ的な経営手腕を見せたことは間違いありません。<br />
　一方で、AppleⅡの販売が失速し始めた1980年頃から、Appleを離れるまでの1990年代半ばまでの彼の企業経営はかなり行き当たりばったりであったように思うし、彼の影響下でAppleという会社が作り出したプロダクトと企業の発展経緯を見る限り、ジョブスはもともとコンピュータの将来に対して夢は持っていても、「確固たる見通し」なんてものは持っていなかったように感じています。</p>

<p>　今、世の中には様々な「ジョブズ語録」が公開されています。「公認」の自伝も出版されました。ジョブスが言葉で語ったとされる「夢」や「理想」「理念」、それはそれで立派なものかもしれません。しかし、ジョブズが興したAppleという会社がコンピュータの発展の中で果たした役割、AppleⅡから昨今のiOS搭載製品に至るまでのApple社のプロダクツとビジネスモデルを見ると、私にはジョブスの語る言葉がずいぶんと色褪せて聞こえてしまうのです。</p>

<p>　今回発売された自伝の中で、ジョブズは「私は、Androidを叩き潰すつもりだ。Androidは（AppleのiOSから技術を）盗んだ製品だからだ。そのためなら核戦争だっていとわない。この不正を正すのに必要であるなら、人生最後の日々をすべて使っても、銀行にあるAppleの400億ドルをすべてつぎ込んでもかまわない」…と語っていたそうですが、こうなるともう「傲慢」としか感じられません。<br />
　また同じ自伝の中で、「ビル（ゲイツ）は基本的に想像力がなく、何も発明してこなかった。だから、テクノロジーより慈善活動をやっている今の方が心地良いのだと思う」と発言。さらに、「彼は臆面もなく、他人のアイデアを盗み取った」とこき下ろした…とのことです。私は、ジョブスが、ビル・ゲイツと比較してそれほど優れたビジネスリーダーであったとも思えません。また、ジョブズはいったい何を「発明」したのか、今ひとつわかりません。</p>

<p>　さて、別にスティーブ・ジョブズという人物の悪口を書きたいわけではありません。むしろ、ジョブスというほぼ同時代に生きた人間の死に、自分というちっぽけな人間の生きてきた道を重ねて、ある種の感慨、共感の気持ちを強く持っています。多少なりともコンピュータや通信の世界に関わってきた人間として、ジョブズの功績は高く評価しています。ジョブズ賛辞が溢れる中で、ジョブズ追悼の意を込めて、ここは私とAppleとの個人的な関わりについて、そして私にとってのジョブズ、または私の中でのAppleという企業の位置づけを確認するためにも、少し長い話を書いてみたいと思います。<br />
　こんなひどい文章、誰かに読んでもらいたから書くのではありません。だから、考えをまとめずに思いつくままに書きます。ちょっと長いし、とりとめもない文になるでしょう。また、記憶だけに頼って書いていくので、事実関係や年代表記、前後関係、商品名表記等にいくつもの誤りがあるでしょう。気が向けば、読み直してきちんとした文章に直すかもしれないし、このまま放っておくかもしれません…</p>

<p><strong>1970～80年代頃のこと</strong></p>

<p>　アマチュア無線が好きだった私は、1970年代の初め頃からから「コンピュータ」「マイコン」という存在に魅了されてきました。むろん技術者としてではなく、あくまで「ただのユーザ」としてです。高校の3年の頃、よく読んでいたアマチュア無線雑誌に掲載されるマイコン関連の記事に強い興味を覚えましたが、当時は値段も高く、マイコン関連製品には手が出ませんでした（大学時代に発売されたTK-80ですら8万円以上だった…）。実際にパソコンを買ったのは、自分である程度お金を稼げるようになってからです。最初は1979年に発売されたPC8001（15～6万円？）を購入、その後1980年代前半までは国内外の様々な8ビット機をいろいろと買い込んでは遊びました。当時私は20代の半ば頃ですから、遅れてきたパソコン少年（？）だったわけです。もっとも「PC8001」を買った年にはバイク（ヤマハ「SR400」）も買ったので、ローンで首が回らなくなった記憶があります。<br />
　遊び以外の用途では、PC8801とプリンタ、そして外付けの8インチFDDを購入して、ワープロソフト「JET-8801A」で、自宅で仕事の原稿書きに活用していた時期もありました。ニューヨークと東京を行ったりきたりしていた頃ですから、1982～3年でしょう。</p>

<p>　一方で1984年に独立して現在の会社を設立してからは、あらゆる業務にNECのPC9800シリーズを導入して使い始めました。1984年から約10年間で、9800シリーズとその互換機を何十台購入したのか記憶に無いほどです。Windowsは2.0から使いましたが、その後Windows3.0から仕事でDOS/V機（PC-AT互換機）を本格的に使い始めました。TCP/IPが実装されたWindows95以降は9800シリーズから完全に離れてDOS/V機を大量に導入してきました。また、80年代に入って最初はP2Pでのパソコン間通信、その後80年代半ばからパソコン通信ネット、90年代に入ってすぐの頃からインターネットをフルに活用してきました。ここまでは、私の世代の人間としてはごく普通の体験だと思います。</p>

<p>　そんな私は、1980年代の後半から90年代の半ば頃にかけて、仕事でAppleという会社、そしてMacintoshというPCとかなり深い関わりを持った時期があります。それのみならず、「マック・エバンジェリスト」として、またパソコンDTPの普及のために、Macintoshの素晴らしさ、Apple社の企業文化の素晴らしさを各所で伝道師のように説いて回ったものでした。</p>

<p>　AppleⅡの時代には、あくまで個人で使う「お遊びパソコンの1つ」に過ぎなかったのですが、確か1985～6年頃に、たまたま仕事上の必要から当時のAppleの総代理店であったキヤノン販売がMacintosh 512Kに日本語ROMを搭載して売り出した「DynaMac」を会社で購入したのが、Apple社のコンピュータとのビジネス現場での出会いです。その後、コンサルの仕事をきっかけに、日本の某システム開発会社が有名なMac用DTPソフトの日本語化を進めるプロジェクトに関係し、さらに大手電機メーカーのMacintosh用アミューズメントソフトの開発プロジェクトに関わりました。Macintoshとレーザーディスクを組み合わせたインタラクティブソフトの開発にも関わりました。<br />
　そんな経緯から1988年の1月、サンフランシスコで開催されたMACWORLD Expoを初めて訪れました。以後、Macintoshの世界にどっぷりと嵌りました。Plus、SE、SE30、Ⅱ、Ⅱfx、Cx、Ciあたりまでの時期は、受託の仕事だけでなく、社内にソフトウェア開発部門を立ち上げ、Macintosh用ソフトの開発に自社で直接携わり、Apple社のオフィシャル・デベロッパーとして周辺機器のドライバの開発なども行ないました。1988年以降、1990年代半ばまで毎年のように8月のボストン、1月にサンフランシスコで行なわれるMACWORLD Expoに出張し、Appleの本社を訪れたりしたのも、今となっては懐かしい思い出です。<br />
　ちなみに、Macintosh以外にも68000系のビジュアルシェルPCは個人的な趣味で購入し、1980年代後半には、Atari「520ST」、AMIGA「1000/2000」、シャープ「X68000」などを購入したことを思い出します。</p>

<p>　なぜ私は、一時期とは言え、これほどMacintoshに夢中になったのか？ Macintoshの伝道師まで務めたのか？ 答えは簡単です。そして、おそらく同世代の他の人と同じです。MacintoshやAtariなど1980年代半ば頃までの68000系のビジュアルシェルPCには、「オルタナティブな匂い」があったからです。<br />
　Appleが創業した1970年代前半は、「パーソナルコンピュータ」それ自体がオルタナティブな存在でした。よく言われることですが、ジョブス、ウォズらがAppleという会社を作った背景には、もともと西海岸のカウンターカルチャーが存在したように私も感じていました。世界で最初にグラフィックUIとマウスオペレーションを実現した「Alt」で知られるパロアルト研究所の運営形態や一時期ジョブスが勤めていたAtari創業の背景にも、根っこには同じカルチャーがあったのしょう。遡れば、1968年を前後して世界的に高揚した「異議申し立て運動」、すなわちアメリカの公民権運動、ベトナム反戦運動、パリ5月革命、文化大革命、世界中で連動した学生運動…に始まり、そこから派生して西海岸で生まれたたヒッピーカルチャー、アシッド・カルチャー（ドラッグ文化）…、それらの残滓、残り香のようなものです。ジョブス自身が、そうした文化に影響されていたことは、自身の口から語られています。<br />
　70年代に生まれたApple2だけでなく、80年代のMacintoshにも、まだそうした「カウンターカルチャーの香り」が残っていたからこそ、「<a href="http://goo.gl/Ff2dY"><strong>マックを売りまくった『フリーセックス』ヒッピー・コミューンの歴史</strong></a>」…、こんな話も出てきたのでしょう。そして私もまた同じでした。<br />
　Macintoshというパソコンには、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーの雰囲気、サンフランシスコを舞台に活躍したグレイトフル・デッドやジェファ－ソン・エアプレイン、アルバート・キング、ジョニ・ミッチェルらのサウンド、フィルモア・ウェスト（オーディトリアム）やウィンターランド・ボールルームの歴史に共通する「懐かしい匂い」が残っているように思いました。</p>

<p>　一方で、私が現在の会社を興した1980年代半ばから1990年代半ばにかけての10年間は、日本ではPC9800シリーズが絶対のシェアをとっていました。PC-9801F3が発売ざれた1984年のNECの国内パソコン市場シェアは約50％、1985年にはNECのシェアは約90％ぐらいはあったと思います。そのPC9800は、誰もが知る通り非常にクローズドなパソコンでした。バスなどの規格も固有のもので、周辺機器も増設機器もほぼすべてが98専用の製品を必要とした、ある意味で面白くもなんともないPCでした。PC9800に席巻された日本のパソコン市場は、新しいコンセプトのパソコンが生まれない、閉塞の時代を迎えていました。</p>

<p>　そのPC9800と較べて、初期の68000系Macは新鮮でした。例えばゲーム。Macのゲームで私が今も思い出すのは、「puppylove」です。これは1985～6年頃のパッケージだったと思いますが、犬に芸を教えながら育ててコンクールに出す…という内容で、一種の「育てゲー」です。当時の日本には存在しない雰囲気を持つゲームでした。「<a href="http://www.d4.dion.ne.jp/~motohiko/"><strong>Vintage Mac Museum</strong></a>」というサイトに画面キャプチャーがありますが、モノクロモニタに映るpuppyloveの画面が非常に懐かしく思い出されます。当初、犬小屋の形をしたパッケージで売られていました。また、同じサイトにキャプチャーがありましたが、「ALICE CATCHR」も個人的には懐かしいソフトです。当時のゲームパッケージ、今も大事にとってあります。<br />
　ゲームではありませんが、ビデオメディアと組み合わせたインタラクティブソフトにも面白いものがたくさんありました。「ミミ号の冒険」なんかは、今でも記憶に残っています。</p>

<p>　私自身、1980年代の後半頃からは、仕事で毎年のようにサンフランシスコを訪れていました。80年代の終わり頃からは、前述したようなMacの仕事に関わった関係で毎年1月にサンフランシスコで開催されるMacWorldExpoにも行くようになりました。当時のMACWORLD Expoの会場は、珍しい周辺機器を展示していたり、ユーザが中古のパーツや周辺機器を売っていたり、お祭り騒ぎのようで楽しかった。会場では、あのSE30を専用のショルダーバックに入れて肩に掛けて歩いている人をよく見かけました。アメリカ人は体力があるなぁ…と感心したものです。当時、サンフランシスコの中心部、ポストストリートがマーケットストリートにぶつかるあたりに、ソフト・ショップのEgghead（今は実店舗がなくなった全米チェーン店）があって、そこでよくEDUCORPのMacintosh用フリーソフト（今で言うシェアウェア）の入ったフロッピーを大量に買ってきました。そういえばEggheadでは、当時でも発売後ずいぶん経つコモドール64のゲームソフトなんかもまだ売ってました。またサンフランシスコ出張時に、Amiga 500やtandy「TRS-80 Model 100」など日本で入手しにくいパソコン本体をソフトとともに購入して、手荷物で日本に持ち込んだりもしました。<br />
　余談ですが、1月にサンフランシスコを訪れると、ちょうど冬物のバーゲンシーズンにあたります。BARTに乗ってシスコ郊外のバークレーに出掛け、駅を降りてUNIVERSITY.AveをUCLAの反対側、サンフランシスコ湾の方へ下っていくと、右側にTHE NORTH FACEの巨大なファクトリー・アウトレットが、次いでさらに海に近いところにSierra Designsのファクトリー・アウトレットがありました。毎年、大量に買い物をしたのも懐かしい思い出です。Sierra Designsの定番の60/40マウンテンパーカが、ちょっと傷ありで100ドル前後で買えたのですから…</p>

<p>　取引先企業の研究所があったパロアルトやサニーベイルに、カルトレインに乗ってのんびりと行ったこともあります。また、シカゴなど東海岸からサンフランシスコへ移動中の飛行機が、サンフランシスコ湾に向かって高度を下げていく時、Appleの本社の上空を飛びます。そのとき、Apple本社の屋上に大きなリンゴの絵、初期のカラフルなAppleのロゴが見えると、わくわくしたものです。<br />
　ともかく、当時のMacを始めとする68000系のビジュアルシェルPCとそのアプリケーション群には、日本で主流であったPC9800にはない、新鮮な雰囲気と自由な発想があったように思います。</p>

<p>　さらに私がMacに強く惹かれた理由のひとつに、DTPシステムの存在があります。MacがもたらしたパソコンDTPは、まさに「出版民主主義の実現」という言葉がふさわしいものでした。莫大な手間と機械とコストを必要とした組版をPC上で実現できたのですから…</p>

<p>　そんなMacとそれを取り巻く文化に対する期待と憧れが、次第に薄れていくのには、それほど長い時間を必要としませんでした。それはMacintoshが、あまりにもクローズドな世界へと閉じていったからです。オープンアーキテクチャの安価なDOS/V機が急速普及していく中で、いつまでたってもMacは増設パーツも周辺機器もバカ高く、IEEE1394（FireWire）とSCSIにこだわるなどI/Fまで特殊な路線が続いていました。そんなMacintoshへの関心は、徐々に失われていきました。Macは「イメージだけで売る高価なパソコン」と感じるようになってきたのです。</p>

<p>　実際に、Macは非常に価格が高かった記憶があります。1984年のMacintosh 512Kの本体価格が90万円、1988年に買ったMacintoshⅡの本体価格は70万円、純正モニタなど周辺機器を入れてメモリを増設したら120万円を超えました。1990年にDTP用に購入したMacintoshⅡciは、本体価格が140～150万円、Apple LaserWriter NTX-ⅡJは120万円、フォント入りHDDが20万円、純正CD-ROMドライブが20万円…と一式で300万円を超えました。今から考えるとバカバカしいほどの値段です。1990年頃のPC9800も高かったのですが、互換機（386マシン）なら上位機で平均で50～70万円程度でしたから、毎年のMacの複数台導入は経営面にも非常に負担になった記憶があります。</p>

<p>　80年代に入ってからオルタナティブカルチャーが衰退しアメリカの社会が変質していく過程と同じような過程を辿り、80年代半ばからAppleやAtariを含む西海岸コンピュータ文化の変質が始まりました。パーソナルコンピュータの機能面の劇的な進化に対応するように、パーソナルコンピュータとその周辺からオルタナティブなカルチャーが失われていったのです。90年代に入ると、シリコンバレーを含むベイエリアのコンピュータ産業はますます商業化、資本の集約化が進み、一方ではApple、サンマイクロ、シスコの成功に倣って一攫千金を狙うベンチャー企業が急増し始めました。文化から産業へ、夢から拝金へ…これが、パーソナルコンピュータを巡る基本的な流れとして90年代に定着しました。90年代の半ばには、ネットスケープ、Yahooが相次いで設立され、ネットビジネスの時代が始まります。<br />
　むろんこうした見方は私の個人的な感想であり、もっと別の見方もあるでしょう。いずれしても、私がMacに対する興味を失っていったのは、まさにこの時期です。</p>

<p>　逆に、PC互換機陣営には圧倒的な勢いがありました。1990年にWindows3.0が登場しました。OSとしての完成度は、2.0までのWindowsをはるかに超えて、使いやすいものになっていました。1991年に試験的にIBM PC、すなわちDOS/V機を購入し、PC9800と比較併用する状況になりました。Windows3.0まではまだNEC版も使いましたが、さらにOSとしての完成度が高まった3.1の日本語（マイクロソフト版）が発売された1993年には仕事で使うDOS/V機（PC-AT互換機）を本格的に大量導入し、事実上社内でPC9800の利用をやめることにしました。安価で高性能なPCを自由に内外のメーカーから機種を選択して調達できる環境になったのです。486マシンが普及し始めたこの頃には、秋葉原には安価なショップブランドのPCを売る店、自作用のパーツショップが急激に増加し、コストパフォーマンスが高いPCをいくらでも簡単に調達できるようになっていました。<br />
　こうした時期、つまり1990年代の半ばには、値段がバカ高い上、クローズドなMac環境にかなり嫌気が差してきており、Macintoshより安価でオープンなDOS/V機の環境でDTPを実現したいと考え、いくつかのメーカーのプロジェクトに参加もしました。</p>

<p>　いずれにしても、こんな感じで一時期のMacintoshに入れあげた私から見て、現在のMac、そしてMacだけでなく、iPod、iPhone、iPadを含めたApple社の全てのプロダクトは、全く魅力がありません。理由は簡単です。あまりにも「クローズドな世界」だからです。</p>

<p><br />
 <a href="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/11/2_2.html#more">スティーブ・ジョブズとは何者だったのか？ <strong>（2）</strong></a>へ続く…</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/11/_1.html</link>
<guid>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/11/_1.html</guid>
<category>日常生活</category>
<pubDate>Thu, 03 Nov 2011 13:21:26 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Galaxy S2を海外で使う</title>
<description><![CDATA[<p>　日常生活に手放せないツールとなりつつあるGalaxy S2について、どうでもいい小ネタ話を2つ書きます。</p>

<p>　まずはGalaxy S2のカメラ機能についてですが、これが画質も機能も予想外に優秀で驚いています。iPhone4のカメラと較べて、画質も機能も一段上です。まあ、数年前のコンデジのエントリー機と同等レベルと言ってもいいでしょう。発色はけっこう素直だし、ダイナミックレンジもそこそこ、推定30ミリ程度の広角寄りの画角も使いやすいし、マクロも悪くありません。<br />
　Galaxy S2のカメラ機能については、ネット上にこんな<a href="http://camera.itmedia.co.jp/dc/articles/1107/29/news037.html"><strong>レビュー記事</strong></a>があり、ここでほとんど言い尽くされているのですが、個人的にもコンデジ専用機並みにレスポンスが速い点がいちばん気に入りました。要するに、電源さえ入っていれば、サッと取り出してサッと撮れます。カメラ画面に常時表示しておくショートカット用の機能アイコンをカスタマイズできますから、これを使って露出補正もISO感度変更も一発です。さらに、GPSをONにしておけば（普段はバッテリーライフの問題でOFFにしていることがあります）、後述するように海外旅行などで撮った写真を、位置情報付きで記録できます。暗所撮影機能も、かなり優秀な部類に入るでしょう。私はあまり使いませんが、フルHD動画もいい画質です。<br />
　なお、シャッター音を消せないので（root化で消す方法がありますがまだ実施していません）、飲食店などでの撮影には不向きな場面もあります。また、店内画像などをtwitterでアップする際、画像の容量を減らすために標準カメラの画素を変更するのも面倒。こんな時、私は「タテヨコカメラ」という無音カメラのアプリを使っています。使いやすくて、気にってます。</p>

<p><img alt="2011-08-30 20.18.23_s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011-08-30%2020.18.23_s.jpg" width="410" height="308" /></p>

<p><img alt="2011-09-09 20.42.50_s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011-09-09%2020.42.50_s.jpg" width="410" height="308" /></p>

<p><img alt="2011-09-12 21.50.07_s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011-09-12%2021.50.07_s.jpg" width="410" height="308" /></p>

<p><img alt="2011-09-12 22.09.28_s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011-09-12%2022.09.28_s.jpg" width="410" height="308" /></p>

<p>　私のようなデジカメ好きでなければ、Galaxy S2があれば日常記録用に持ち歩くコンデジは不要…と言い切っても良いレベルです。今後普及するスマホに全てこのレベルのカメラ機能が搭載されれば、普及タイプのコンパクトデジカメの売れ行きに大きな影響を与えることは確実です。</p>

<p>　ところで、9月上旬の海外出張時に、SIMロックを解除したGalaxy S2を持参して、主にタイでプリペイドのNet SIMを利用してみました。タイでは、3Gと2GのNet SIMを入手できます。3Gは高速接続が出来るのですが、バンコクですら3G接続できるエリアはけっして広くありません。ましてや地方都市では3Gはほとんど普及していません。一方で2Gのデータ通信速度は最大128kbps（GSM-EDGE方式）程度が多く、動画の視聴やデータ量の多いホームページ閲覧などには適しませんが、メールの送受信やツイッター、テキストベースのニュース閲覧程度なら問題はありません。</p>

<p>　タイでは30時間ネット接続できるプリペイドの「Net SIM」が、100バーツ（260円）以下で入手可能です。2Gのデータ通信は、パケット量ではなく通信時間単位でデータ課金を行う仕組みが一般的です。こうした「Net SIM」は、通話用のSIMと同様に、空港の携帯電話ショップや、街中のコンビニ、携帯電話ショップ等で購入して、SIMロックを解除したスマートホンに挿し、現地で普通に使うことができます。30時間のSIMなら、1週間程度の滞在期間中に、毎日数時間ネットに接続できます。</p>

<p>　私はホテル近くのセブンイレブンで買った69バーツ（約190円）のAISのNet SIMと、99バーツ（約260円）のTlueの3G+WiFiのNet SIM（通話不可）を交互にGalaxy S2に挿して、約1週間の出張期間に毎日、メール送受信、Twitter投稿、ニュースサイト閲覧等に使いました。2Gでの接続ながら、Twitterでは写真添付も問題なく、サイト閲覧もそこそこ快適に利用できました。バンコク市内はむろん、バンコクから150kmほど離れた仕事先の工業団地がある地方都市でも、問題なくネットに接続できました。<br />
　バンコクはWi-Fi環境もほぼ東京並みですから、ホテルやカフェなどでは普通にWi-Fi接続で使えます。Wi-Fi接続とうまく併用すれば、2Gの128～384kbpsで十分です。</p>

<p>　なお、通信時間単位でデータ課金を行う仕組みのプリペイドSIMを利用する場合は、課金を止めたい時（つまり使わない時）は、通信・接続そのものをスマートホン側の設定でオフにするか、スマートホンの電源を切っておく必要があります。<br />
　また、3G回線に対応した高速通信型「Net SIM」も、試しに使ってみました、タイの場合だと価格が200バーツ（500）程度で、最大1カ月間、1Gバイト分まで利用できる…といった設定になっています。</p>

<p>　そして、これは重要な情報ですが、ドコモ版のGalaxy S2の場合、SIMロックを解除しても海外のSIMでテザリングは使えません（root化しておけば使えるように設定できます）。海外でスムーズにスマホでテザリングをしたければ、現地で安価なSIMロックフリーのテザリング機能付きスマートフォンを購入した方がいいでしょう。</p>]]></description>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Wed, 28 Sep 2011 13:34:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>非常に使いやすい「Galaxy S2」</title>
<description><![CDATA[<p>　Galaxy S2は本当に使いやすい端末です。CP/コンテンツ開発という仕事柄、スマートフォンはwindows mobile端末、Blackberry、iPhoneと一通り使ってきました。Androidは、初代のXperiaに始まり、IS01、IS03、IS05、MEDIAS WPなどいろいろと使ってみましたが、機能やUI、操作性、使い勝手などあらゆる面でiPhoneに1日の長があると感じ、事実自分でもここ1年はiPhoneを日常的に使ってきました。ところが、GALAXY S2を使うようになってから、iPhoneを全く使わなくなりました。高速CPUと大容量メモリによる動作のサクサク感、マルチタッチ操作を含むユーザインタフェース、ディスプレイの視認性、カメラの性能など、どの点でもiPhone4と遜色がないか、GALAXY S2の方が上回っています。<br />
　また、ここへ来てAndroidのアプリが急速に充実しつつあり、iPhoneアプリと機能面で遜色がない実用アプリが大量にラインアップされつつあるのも追い風です。</p>

<p>　あと操作性やUI面でiPhone4と同等ならば、回線のつながりやすさでドコモはストレスが溜まりません。ソフトバンク回線は特に屋内環境使ってられません。都内でも、飲み屋なんかで使えないところが多過ぎます。テザリングも簡単で、私はWi-Fiルーターを持ち歩くのをやめてしまいました。<br />
　また、Android端末はWindowsPCやLinuxPCとの親和性が高いのも魅力。オープンな情報処理環境で簡単に使えます。汎用のUSBケーブルで接続すればそのままデバイスとして認識され、ファイルを直接見られます。ソフト無しでPCとのファイル転送が可能です。だから画像からドキュメント、動画まで様々なファイル形式のビュアーとして使うのには非常に便利です。MicroSDなど汎用外部メモリが使えるのも非常に便利です。私は32GBのMicroSDを挿し、内臓メモリの16GBと併せて外部メモリの容量に全く不満はありません。<br />
　さらには内臓バッテリーを簡単に交換できるので、iPhoneのように外部電源を持ち歩かなくとも、充電した予備バッテリーを2～3個持ち歩けば問題は解決です。加えて、GALAXY S2はSIMロック解除ができるので海外、特に出張先に多いGSM圏でプリペイドSIMを挿してそのまま使えます。むろん私の周囲ではSIMロックフリー版のiPhoneをドコモ回線で使っているユーザもいますが、かなり高くつきます。GALAXY S2ならSIMロックフリー版が3万円台で普通に購入できます。ちなみにGalaxy S2はroot化も簡単です。<br />
　こうなると、いちいちiTunesを起動して専用ケーブルを接続しないと何も出来ないし、インターフェースが特殊で何をやるにも全て専用の周辺機器を必要とするクローズドな端末であるiPhoneなど、面倒臭くて使ってられません。</p>

<p>　私は昔から、携帯用のPC、そして各種PDAに代表される小型の情報端末が異常に好きです。ミニPCは、IBM「PalmTop PC110」、東芝「Libretto」シリーズ、NEC「mobio」等々、PDAに類する端末としてはシャープ「Zaurus」、NEC「モバイルギア」、ドコモ「シグマリオン」、カシオ「カシオペア」、HP「iPAQ」等々、さらには、スマートフォンでは「FOMA M1000」や「W-ZERO3」など、実に1980年代後半あたりから、ありとあらゆる小型端末、携帯端末を使ってきました。<br />
　そして、3G回線を使うスマートフォンが普及した最近では、これまでこれらの小型情報端末でやってきたことの多くをスマートフォンでやろうと、いろいろと試みてきました。3GS以降のiPhoneは、過去に使ってきた携帯型情報端末に連なる端末として非常に良く出来ていると思ったのですが、Galaxy S2を使ってみて考えが変わりました。やはり携帯端末は、できるだけオープンな規格の範囲で使える方がいい。そして処理速度が速い方がいいと思った次第です。<br />
　Galaxy S2に不満が無いわけではありません。例えば、音質は全然ダメでDAP代わりには使う気がしません。でも、当面は日常生活の中でGalaxy S2を手離せそうにありません。</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/08/galaxy_s2.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Wed, 31 Aug 2011 18:00:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>真夜中に聴きたい50曲 (28)</title>
<description><![CDATA[<p>(28)<strong>The Ramones</strong>「<strong>Rockaway Beach</strong>」（ラモーンズ：ロッカウェイ・ビーチ）</p>

<p>　私は昔、今は無きニューヨークのクラブ「CBGB」でラモーンズを、生で聴いたことがあります。この話をすると長くなるので別の機会に書きますが、ラモーンズは1974年に結成され（メジャーデビューは76年）、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、パティ・スミス、テレヴィジョンらと並んで、70年代の「ニューヨーク・パンク」ムーブメント」の中心となったバンドです。そして、90年代の半ばに解散するまで、息の長い活動を続けました。しかし、初期のアルバムはともかく、80年代以降はロックシーンの中であまり注目されるバンドではありませんでした。また、70年代のパンクシーンで活躍したとは言っても、現在に至るまでヴェルヴェット・アンダーグラウンドやルー・リードほどには高い評価を受けてはいないような気もします。</p>

<p>　ラモーンズは、ファーストアルバム「Ramones」（邦題：ラモーンズの激情）が最も有名でしょう。現在は「パンクの古典」扱いです。もう、あの単純で短い曲の繰り返しは、最初に聴いたときは「コレ何？」って感じで、けっこうインパクトがありました。ジャケットもかっこよかった。ファーストアルバム以外で記憶に残っているのは、フィル・スペクターがプロデュースした「End of the Century」です。ニューヨークパンクは好きですが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやパティ・スミスのような「内省的」な部分が感じられない分、ライブで楽しむならともかく、繰り返してレコードを聴くサウンドではないと感じたものです。</p>

<p>　さて、今回取り上げる「ロッカウェイ・ビーチ」という曲は、彼らの3枚目のアルバム「Rocket To Russia」に収録されています。このアルバムは、1、2枚目のアルバムとは異なり、けっこうメロディラインのはっきりした、いわゆるメロコア系の曲が多いかもしれません。で、なぜこの「ロッカウェイ・ビーチ」という曲を挙げたのかといえば、これはもう個人的な思い入れによるものです。</p>

<p>　私の2度目のニューヨーク在住は1982年から83年にかけて。特に1983年のニューヨークの夏は、猛暑だったのでよく覚えています。当時私は、レキシントンアべニュー23丁目にある<a href="http://goo.gl/vZDcd"><strong>ジョージ・ワシントン・ホテル</strong></a>という伝説の安ホテルに住んでいました。そのホテル、なんと部屋にエアコンがなかったのです。連日、昼間は最高気温が華氏110度近い日々が続く中、私は涼をとるために、毎日地下鉄に乗って海に出掛けました。BかDのラインに乗ってコニーアイランドへ行くこともありましたが、やっぱり好きだったのは、ロッカウェイ・ビーチです。マンハッタンのミッドタウンから地下鉄Aラインに乗って、クイーンズを縦断した終点が、大西洋に面したロッカウェイ・ビーチです。クイーンズの一番南、ジャマイカベイを挟んでJFKの対岸にあり、東から西へ突き出した砂洲のような半島です。半島の根元にあたる東の端は、もうロングビーチの海岸に連なっています。<br />
　地下鉄のAラインは、ジャマイカベイの真ん中、つまり海の真ん中（地下ではなく地上の砂洲）を走っていく気持ちの良いラインで、ミッドタウンからは約1時間できれいなビーチの真ん中に着きます。砂浜で寝そべっていると、海に向かってJFKを離陸する飛行機がよく見えます。1時間に1回ぐらいは、轟音をたててコンコルドが飛び立っていきます。それをぼんやりと見ながら、泳いだり甲羅干しをしたりして一日中海岸で過ごしていました。</p>

<p>　ラモーンズの「ロッカウェイ・ビーチ」は、クイーズ生まれのメンバーが、自分たちがよく遊んだ海を歌った曲。その曲を聴くと、私もあのクソ暑かったマンハッタンで過ごした日々、ロッカウェイ・ビーチの海岸で過ごした気だるい昼下がりを思い出すのです。</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/07/50_28.html</link>
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<category>音楽</category>
<pubDate>Thu, 21 Jul 2011 18:27:16 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ラオス、メコン川への24時間ミニトリップ</title>
<description><![CDATA[<p>　6月初旬、クアラルンプール、バンコクへの1週間の出張があり、その出張の合間、土曜日の午後から日曜日の夕方まで、約24時間の短い休暇が取れました。その短い時間を利用して、メコン川を見に行こうと思い立ちました。<br />
　で、選んだのはタイ東北部の町、ナコンパノム。メコン川西岸に位置するナコンパノムは、対岸のラオスの町ターケークに船で渡れる場所です。<br />
　簡単に行けるところで、川を船で渡って国境を越えられる場所というのは、世界的に見てもあまり多くはありません。アジアやヨーロッパなど「川が国境」という場所は非常に多いけれど、イミグレーションがあるような都市、町にはたいてい橋が架かっていて、外国人は陸路でしか通れないケースがほとんど。船で渡れるのは、普通は地元民だけです。<br />
　タイ－ラオス国境もたいていは陸路。ノンカイからビエンチャン方面へ行く場合も、国境越えは陸路。ナコンパノムの南のムクダハンも、友好橋が完成してからは外国人は陸路でしかラオスへ行けなくなりました。知っている範囲では、タイ北部のいわゆるゴールデントライアングル地域のチェンコーンからラオスのラオス国境の町フェイサーイ間が確か船で国境を越えられると思いますが、ここは24時間では往復できません。<br />
　今回行ったナコンパノムも、現在町の北部にメコン川に架かる橋を建設中です。ちなみに、Wikipediaの「<a href="http://goo.gl/cFzHR"><strong>ターケーク郡</strong></a>」を読むと、「現地の人用に国境ゲートがあり、船でメコン川対岸のナコーンパノムに渡ることができる。旅行者は渡ることはできない。2009年より、ナコーンパノムとの間で第3タイ＝ラオス友好橋の建設が行われている。完成の予定は約3年後である」と記述してありますが、この「旅行者は渡ることはできない」は間違いです。現時点では外国人でも船で国境を越えられるし、ラオスは日本人は短期間の滞在なら数年前からノービザです。そして、まもなく橋が完成すれば、外国人は船での国境越えが出来なくなるはず。ナコンパノムからメコン川を船で渡って国境を越える…、これが最後のチャンスです。</p>

<p>　そのナコンパノム、バンコクからは飛行機で行けますが、1日1便だけ。ドンムアン利用のLCC「ノックエア」の便です。前日、金曜日の午後にネットで予約しました。ノックエアと言えば相変わらず冗談のような鳥の顔の機体デザイン。とてもタイ航空の子会社とは思えません。で、仕事が終わった土曜日の夕方、小さなデイパック1つに1泊分の着替えとデジカメを入れて、タクシーでドンムアン空港へ向かいました。かつて国際線でよく降り立ったドンムアンは、スワンナプーム完成後は国内便専用空港ですが、やっぱり便利だし非常に懐かしい感じ。<br />
　搭乗したノックエアの機体は双発のプロペラ機、ATR 72です。小さなプロペラ機に乗るのは久しぶりですが、離陸後の旋回で機体がぐっと傾くところが、けっこう気持ちよくて好きです。ノックエアは座席番号が予約されるし、1時間半のフライトでも軽食が出るのが、他のLCCよりちょっとハイクラスです。<br />
<img alt="Cimg1099s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1099s.jpg" width="360" height="270" /><br />
　さて、1時間半のフライトで、無事ナコンパノムの空港に到着。約20kmある川沿いの町までどうやって行こうかと考えていたら、リムジンサービスがあり、乗合のミニバンでホテルまで50バーツでした。<br />
　ホテルはメコン川のほとりに立つ、<a href="http://www.nakhonphanomriverviewhotel.com/index.html"><strong>ナコンパノム・リバービューホテル</strong></a>。ナコンパノムでは最大で唯一の近代的ホテルです。ゲストハウスや小さいツーリスト用ホテルに泊まるのは面倒だったので、事実上ここしか選択肢がありませんでした。前日に電話で予約しておいた、リバービューの5階角部屋に通されました（翌日のレイトチェックアウト料金込みで約2500バーツ）。広い部屋の窓から見えるのは、息を呑むような夕暮れのメコン川。対岸のターケークの町の背後には中国の桂林のような石灰岩の奇峰が連なり、不思議な光景です。</p>

<p><img alt="Cimg1123s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1123s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　その夜は、近くのレストランで食事でもしようと考えていたのですが、ホテル近辺には何も店がありません。で、ホテルのスタッフに聞いたら、南へ10分ほど歩いたところに川沿いのレストランがあると…。そこへ行きました。メコンの川原にせり出した桟敷のような席に座り、どっぷり日暮れた暗いメコンの川面と対岸のラオスの点々とした明かりを眺めながら、正体不明の焼き魚とガイヤーン（鳥の炭火焼）でビール。小雨が降る中、自分以外に客もいない、静かなイサーンの夜が過ぎていきます。その夜は、早々とホテルに帰って寝ました。</p>

<p><img alt="Cimg1127s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1127s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　翌朝、早起きしてホテルで朝食を摂り、朝8時にラオス行きの船着場へ向かいます。雨季なのに、この日は運良く快晴でした。ホテルからトゥクトゥクに乗って川沿いに10分ほど走ると、イミグレーションです。</p>

<p><img alt="Cimg1184s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1184s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　ここで、まずはタイの出国手続きを済ませ、川に面したイミグレーションの建物の裏手から急な階段を下りると、そこが船着場。</p>

<p><img alt="Cimg1338s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1338s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　泊まっていた渡し舟は30人乗りぐらいで、料金は60バーツ。乗船者はパスポート不要で普段着で行き来するラオス人とタイ人以外に、ベトナム人が多い。ナコンパノムはベトナム国境まで150kmしかないため、陸路ラオスを横断してタイまで買出しに来るベトナム人が多いのです。ターケークのバスターミナルからは、ベトナムのハノイやビン、ダナンへ行くバスが1日何本も出ています。</p>

<p>　このあたりのメコンの川幅は約1km、対岸のラオスの船着場がよく見えます。いったん上流に大きく迂回した船は10分ほどで対岸の船着場に到着。</p>

<p><img alt="Cimg1320s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1320s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1318s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1318s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　手すりもない急な階段を恐る恐る登ると、そこがラオスのイミグレーション。入出国カードを渡され、記入して入国手数料とともに軍服姿の係員に渡すと、入国目的と滞在期間を聞かれ、今日中に戻ってくると言うと、パスポートに簡単に入国スタンプを押してくれました。女性の入国係官が、パスポートの私の名前を声に出して読んでいたのが面白かった。で、晴れてラオスに入国です。事前に何も調べず、ガイドブックも読まずに来たので、本当に入国できるかどうかちょっと不安でしたが、簡単に船でラオスに入国できました。</p>

<p><img alt="Cimg1207s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1207s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　こうして朝のターケークの町に着いたのですが、地図もなく町の概要もわかりません。前々夜にバンコクのホテルでネットで調べた時には、ターケークは数軒のゲストハウスがあるだけの小さな町で、ほぼどこへでも歩ける…とあったので、まあなんとかなるだろうと、イミグレ近くに一軒だけあった小さなお店で、アイスコーヒーを飲みながら、メコン川を眺めてしばし休憩。歩くには暑過ぎるので、イミグレ横の小さな広場に集まっているトゥクトゥクのうちの1台と、町を見物したいから1～2時間乗せてくれと交渉すると、結局「50バーツ」で話がつきました。ターケークではラオスのお金だけでなく、バーツやドルも使えます。タイのAISのSIMを挿した携帯電話もそのまま使えます。</p>

<p><img alt="Cimg1220s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1220s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1227s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1227s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1307s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1307s.jpg" width="360" height="300" /></p>

<p><img alt="Cimg1303s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1303s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　いちおう舗装してあるメインストリートは、家も商店もまばら。道端で牛が草を食んでます。まずは町の中心部、郡のオフィスがある一帯へ行きます。辺りは少し街並みがにぎやかで、ぶらぶらしながら写真を撮り、次に市場へ行きます。数百軒は店があろうかという大きな市場は、売っているものも珍しくて非常に面白く、ちまきなどを買い食いしながら、1時間近くも見て回ってしまいました。</p>

<p><img alt="Cimg1254s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1254s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1257s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1257s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1271s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1271s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1283s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1283s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Cimg1286s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Cimg1286s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　ターケークでは、英語は全く通じませんが、タイ語はOKです。市場を出て、その後トゥクトゥクに街中をぐるっと回ってもらい、お昼近くにイミグレ付近へと戻ってきました。メコン川沿いに南へちょっと散歩して、正午過ぎにはイミグレでラオスを出国、渡し舟に乗ってナコンパノムへと戻ってきました。</p>

<p><img alt="Dsc00767s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Dsc00767s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p><img alt="Dsc00790s.jpg" src="http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/Dsc00790s.jpg" width="360" height="270" /></p>

<p>　ナコンパノムの町を散歩してホテルへ戻り、夕方にはチェックアウトをして空港へ。無事バンコク・ドンムアン空港へと帰着しました。</p>

<p>　たった24時間のミニトリップでしたが、大河メコンの印象的な夕暮れと朝焼け、牛やヤギが草を食む赤茶けたラオスの大地を堪能し、短時間ながらとても満足した旅になりました。<br />
　ちなみに、ターケーク郡があるカムムアン県には東南アジア有数のカルスト地形が広がり、大きな鍾乳洞などがあるので、機会があればまた別ルートでゆっくりと行きます。</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/06/24.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Wed, 22 Jun 2011 16:53:30 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>首都圏の汚染</title>
<description><![CDATA[<p>　ひどいことになりました。人生の先が読めません。前にも書きましたが「まさか自分が生きているうちに、こんな事態を見ることになろうとは…」という気持ちが、ますます強くなってきました。</p>

<p>　大げさな話でもなく、むろん危険を煽るための話でもなく、常識的に考えれば、時間の問題で東京を含む首都圏は人が安心して住める場所ではなくなりそうです。いや現時点でも既に、東京は赤ちゃん、小さい子供のいる家庭が安心して住める場所ではありません。<br />
　ようやく文部科学省が公開したWSPEEDI情報によれば、関東・静岡・山梨のほぼすべての地域が、チェルノブイリの汚染区分でいう「第3区分（放射線管理エリア）」に入っている可能性があります。<br />
　いまや、東京の放射能汚染による危険度は、福島県と大差がないと考えています。WSPEEDI情報によって、また福島第一から約300km離れた神奈川県南足柄の茶葉から高濃度のセシウムが検出されたことによって、多くの人が首都圏の土壌も相当に汚染しているという事実を知ったでしょう。住民のパニックと経済活動の停滞を恐れる東京都は、公式な土壌の線量測定を行なっていませんが、民間団体・研究機関の調査では、東京都内各所の土壌から高濃度の放射性物質が検出され続けています。ジョージア大学のダラス教授の調査では、江東区豊洲で福島県郡山市の数値よりも高い線量を計測しています。近畿大の調査では江東区で放射性セシウムの濃度が1㎡あたり3千ベクレルを超えていた…との報道もありました。<br />
　さらにその上、福島第１原発からは今なお毎日「154テラベクレル」の放射性物質が放出され続けており（海に放出される汚染水を除いても）、「放射能ダダ漏れ」に関しては事態収拾の見通しは全く立っていません。東電の工程表など誰も信じておらず、今後数年間に渡って放射性物質の放出が続くことはほぼ確実です。今後、この広範囲な土壌汚染は日を追って濃度が高まるわけで、1年後に東京を含む首都圏が「人の住める場所」であるかどうかの予測すらつきません。むろんこれは、今後福島第一原発で水蒸気爆発や再臨界などの破局的な事態が起こらない前提での話であり、そうした事故が起こる可能性に加えて、余震・台風等による原子炉や格納容器の更なる破損の可能性もあるわけです。事態の推移次第では、ヨウ素やセシウム以外にも有害な放射性物資が拡散するかもしれません。これらを考え合わせれば、今、福島原発からわずか200kmしか離れていない首都圏に住み続けている方がおかしい…のかと、真剣に考えてしまいます。</p>

<p>　首都圏が人が住めなくなるほど汚染される…ことの衝撃は、日本という国の存在の根幹を揺るがすものです。東京都市圏（一都三県）のGDPは、日本全体のGDPの1/3以上に達します。<br />
　ただ、今後首都圏が、仮にチェルノブイリ「第2区分（移住可能エリア）」レベルの汚染状態になったしても、実際には人は住み続けるでしょう。また政府のメンツもあって、首都の移転は当面はないでしょう。東京や横浜、千葉市やさいたま市の人口が急激に減るとは考えられません。市街地の一部が既にチェルノブイリ「第1区分（強制移住エリア）」に相当する汚染に見舞われている福島市や伊達市、郡山市ですら、大半の人が「避難」や「移住」を躊躇っています。これは何も、多くの人が政府や御用学者による「安全キャンペーン」に騙されているから…というわけではなく、誰もが、避難や移住をすると「食べていけなくなる」からであることは間違いありません。仮に、「安全キャンペーン」を信じる人がいたとしても、それは「食べていくためには避難できない、だからこの程度の放射能なら安全であると信じたい」…という意識が働くからでしょう。</p>

<p>　しかし、今後、首都圏がチェルノブイリ「第2区分」程度に汚染されるとなると、例え首都圏から離脱・移住する人間が少数に留まったとしても、経済的には非常に大きなダメージを受けます。<br />
　まずは、土地取引の事実上ストップと地価の暴落です。日本全体の地価合計の半分近くを占める首都圏の地価の暴落によって、メガバンクを含む金融機関は決定的なダメージを受けるでしょう。資金繰りがつかなくなった企業の設備投資も止まります。むろん、汚染を嫌う企業の首都圏脱出が相次ぐでしょう。首都圏から関東北部にある生産拠点の海外移転も加速します。全ての外資系企業は、事実上首都圏から撤退していきます。こうした動きが、さらなる経済の停滞を招き、首都圏の商業、サービス業は壊滅的な打撃を受けるでしょう。特に中小・零細企業や飲食業などは、大半が経営が立ち行かなくなるはずです。生活のために避難を留まったはずの人々が、結果的に生活できなくなるケースが増えてくるはずです。そして、福島原発により近いエリアからの人口流入が相次ぎ、経済の停滞と失業者の急増に伴って東京の一部がスラム化するなど、一気に治安が悪化する可能性もあります。将来に対する不安感の増大が、治安の悪化に拍車をかけるかもしれません。そして、こうした状況の中で発行し続ける国債が紙切れになり、円が暴落し、ハイパーインフレが起こる可能性すらも否定できません。<br />
　こうした事態に対して、国が、政府が、何らかの有効な手立てを打てるとは思えません。政府や官僚が無能だから…という理由以上に、おそらくは日本という国の現在の「国力」、すなわち「経済力」が、こうした事態に対応できる力を持っていない…と思うからです。「日本人には耐える力がある」「日本には底力がある」と国を信じている人もいるでしょうが、何事にも「限度」があり、今回の事態は「国力の限度を越えた」と理解しています。</p>

<p>　汚染範囲が拡大するにつれて、北海道を除いて関東以北、東北までの広範囲なエリアで、農・畜産・漁業は壊滅するでしょう。デタラメに基準値を緩めて国民に無理に汚染野菜や汚染肉、汚染魚を食べさせている現状も、まもなく行き詰ります。放射性物質が降り積もった土地で農業を再生できるような「土壌の徐染」が本当に可能なのかよくわかりませんが、少なくとも10年単位で、北関東、南東北での農・畜産業は不可能になります。ここでも大量の失業者が生まれ、これはむろん、東電や国が所得保障、生活保障できる範囲を遥かに超えるでしょう。</p>

<p>　一時は、真剣に東京離脱を考えていた私ですが、今はこの汚染された地に可能な限り踏み留まって、行く末を見てやろうとも思い始めました。何だか「一時期繁栄を誇った文明の末路を見届ける」といった心境です。まあ、自分は放射能に対する感受性がかなり低くなった年齢だからこそ、こんなことが言えるのかも知れません。また、可能な限り内部被爆を避ける手立てを尽くすつもりですし、この年齢でも本当に危険になったと判断したときは、国に殉じるつもりは全くありません。ただ、千葉県北部の、かなり高い線量が検出された「ホットスポット」にある公立病院で小児科医師として働く長男は、当面は今の職場で勤め続けるとのことで、心配しています。また、原発から南西90kmにある家人の実家でも深刻な土壌汚染が進んでおり、特に中学生の従姪の健康が心配です。</p>]]></description>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Wed, 18 May 2011 14:26:44 +0900</pubDate>
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<title>徒然なるままに脱出ルートを考える</title>
<description><![CDATA[<p>　福島原発については、日々事態が悪化するように感じます。少なくとも明るい兆しはありません。ここ数日大きな余震も多いし、破局的事態が起こる可能性は減っていません。そんな中で日々眠り、食べ、遊び、そして仕事をしています。まあ自分は年も年ですから、何が起こってもジタバタしない…と言い切れればいいのですが、なにぶん往生際の悪い性格な上に、こんなくだらない「人災」で苦しんだり死んだりするのも癪です。というわけで、大規模な水蒸気爆発や水素爆発など、一気に首都圏にまで放射線被害が及ぶような事態に至った際には、ジタバタと逃げようと考え、いろいろと算段をしています。保険関係、登記関係等の書類、貴重品、オフィスのデータをバックアップしたポータブルHDD、それに若干の着替え、非常食等がグレゴリーの25Lのバッグにまとめてあります。<br />
　私の場合は名古屋に実家があるので、まずは何とか名古屋まで辿りつき、そこで少し事態の推移を見守る余裕があれば、状況を見極めた上で必要に応じてアメリカかアジアへと海外脱出をしようと考えています。国際線のチケット取得もそのうち困難になりそうなので、とりあえずバンコク発券の1年間オープンチケットでもネットで買っておこうかと考えている次第。</p>

<p>　さて、まず名古屋へ脱出すると言っても、その名古屋までどうやって辿り付くか…です。電車に乗れれば、それがベストですが、仮に大規模爆発や余震による原子炉の致命的損傷等のニュースが報道されれば、その瞬間に東海道新幹線の切符を購入することは不可能になるでしょう。飛行機も無理でしょう。<br />
　新幹線がダメなら、普通電車を乗り継ぐという手もあります。東海道線なら、熱海行き、浜松行き、大垣行きと普通電車を乗り継げば、なんとかたどり着けるかもしれませんが、これとて乗れる保証はありません。同様に長野新幹線や中央線も乗車は難しいでしょう。そこで、人があまり乗らない路線を乗り継いで西へ向かうことを考えるとよいかもしれません。例えば、自宅は練馬なので、西武線または東武線に乗り、JRの八高線に乗り換えます。そして高崎まで行ってそこで信越本線に乗り換える…というルートなら、長野県に入れる可能性があります。同じように、一般の人がダイレクトに西へ向かうのを尻目に、京浜東北線や高崎線を使って北へ向かい、迂回して中部、関西地方へ向かう手もありあそうです。<br />
　そして次に家人と一緒にクルマで脱出する方法もあります。我が家のクルマは、現在満タンのガソリンが47リットル入っています。燃費のいい小型車なので、地方道中心に走れば多少渋滞に巻き込まれてもほぼ10km/lは走るでしょう。そうなると無給油で450kmは行けます。東海道沿いはむろん、長野や新潟を回っても名古屋まで十分に辿りつける計算です。<br />
　問題は、西へ向かうのにどのルートを使うかです。東名、名神、関越の3つの高速道路は絶対に不可能でしょう。むろん、一般国道もR1やR20、R246などダイレクトに西へ向かう道は避難するクルマが殺到して渋滞で身動きが取れなくなるのは必須です。また、R17からR18に入って碓氷峠を越えるルートもクルマが殺到しそうです。<br />
　そこでまず考えたのが、自宅がある練馬起点では使いやすいR254で藤岡、下仁田経由で内山峠を越えて佐久へ抜ける道。しかし、これはけっこうメジャーな道なので、動けなくなる可能性が高いかもしれません。群馬と長野の県境にある峠としては、内山峠の南に田口峠（県道下仁田・臼田線）があり、これはちょっと有望ですが、下仁田まではR254を走る必要があるので、あくまで内山峠のエスケープルート的な位置づけになるでしょう。<br />
　県境をちょっと南下すると長野県道108号に繋がる余地峠がありますが、これは自動車通行不可です。<br />
　それより南にある群馬と長野の県境にある峠は、大上林道で大上峠を越える道、そして割とメジャーなR299の十国峠越え、県道124号のぶどう峠越えがあり、いずれもクルマで通行が可能です。ぶどう峠の南に中之沢峠がありますが、これは確か自動車の通行は不可ですね。さらに南に下れば中津川林道で三国峠というコースがあります。ここは大部分が未舗装だし道幅も狭いので危険です。<br />
　これまでに挙げた中では、十石峠もかなり悪路なので、大上峠越えか、ぶどう峠越えがよさそうです。これなら練馬の自宅から秩父あたりまで間道と裏道で渋滞を避けて行けるので、主要国道を使わないでいいメリットがあります。<br />
　あとは山梨県へ抜ける道もあります。青梅街道から大菩薩峠がポピュラーですが、これはメジャーなルートなので混みそうです。むしろ秩父からR140で雁坂峠を越えて甲府に抜ける方がクルマが少なそうな気がします。<br />
　まあ、こんな風にシミュレーションしていますが、1人であれば車ではなくスーパーカブを使うので、確実にたどり着ける自信はあります。また、歩いてもたいしたことはありません。1日40kmは楽に歩けるので、西武秩父あたりまで電車に乗れば、あとは1～2日で長野県に出られるでしょうし、そこからはまた鉄道が使えるはずです。</p>]]></description>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Thu, 14 Apr 2011 16:27:43 +0900</pubDate>
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<title>真夜中に聴きたい50曲 (27)</title>
<description><![CDATA[<p>(27)<strong>The Byrds</strong>「<strong>Hickory Wind</strong>」（ザ・バーズ：ヒッコリー・ウィンド） </p>

<p>　ロックの歴史を紐解く時、現在のロックの原型を1960年代のイギリスに求める見方は一般的です。まずは、アメリカで生まれたロックンロールを発展させる形で、アニマルズ、ザ・フー、キンクス、そしてビートルズやローリング・ストーンズなどが新しいロックサウンドを生み出しました。さらにブルースの影響を強く受けてブルースロック、ハードロックという分野のサウンドを確立したのがヤードバーズ、クリーム、ジェフ・ベック・グループ、そしてレッド・ツェッペリンらです。彼らをもってして、「現代ロックの主流の始まり」とする見方です。<br />
　1960年代の終わり頃からロックを聴き始めた私自身も、概ねその通りだと思いますが、現代において主流となってるロック・ミュージックには、実はもうひとつのルーツがあります。それは、1960年代の半ばにアメリカで生まれたフォーク・ロックです。アメリカで60年代に隆盛を見たフォーク・ロックというジャンルでは、ボブ・ディラン、タートルズ、ママス＆パパス、グラスルーツ、バッファロー・スプリングフィールドなどのミュージシャン、バンドが知られていますが、中でもこのジャンルの音楽の確立に最も貢献し、その後のアメリカン・ルーツ・ロック、カントリー・ロック、さらにはウェストコースト・ロックといったルーツロック系の流れを作ったバンドが「ザ・バーズ」です。ザ・バーズこそが、クロスビー、スティルス、ナッシュ＆ヤングやイーグルスらへと続くアメリカン・ロック・サウンドのもうひとつの本流を生み出すにあたって、実は最も大きな役割を果たしたバンドの1つではなかったかと、私は思っています。</p>

<p>　ザ・バーズの結成が1964年で解散は1973年ですから、活躍した時期はほぼビートルズと重なります。そして、実際にビートルズの影響も大きく受けています。一部では「ビートルズとボブ・ディランをミックスしたサウンド」などといわれたりもしますが、実のところは、そんな単純なバンドではありません。特筆すべきは、そのメンバーです。結成時のオリジナルメンバーは、ロジャー・マッギン、ジーン・クラーク、デヴィッド・クロスビー、クリス・ヒルマン、マイケル・クラーク。1965年に「ミスター・タンブリンマン」が大ヒット。その後、サイケデリック・ロックやスペース・ロックといった当時のコンテンポラリーを目指した「迷サウンド」に走った時期がありますが、1968年にグラム・パーソンズが参加、ザ・バースはそのグラム・パーソンズのリードによってカントリーテイストに溢れたアルバム「ロデオの恋人（<strong>Sweetheart of the Rodeo</strong>）」を発表します。</p>

<p>　「ロデオの恋人」は、カントリー・ロックの傑作と言われる名アルバムです。そしてその中でも歴史に残る名曲として、後に多くのカントリー系ミュージシャンにも歌われたのがグラム・パーソンズが作り、自ら唄う「ヒッコリーウィンド」。むろん、リマスター版で、グラム・パーソンズの歌っているテイクを聴いてください。ゆったりとした心地よいサウンドと優しいパーソンズの声、美しいコーラスが心に染み入る曲です。</p>

<p>　さて、ザ・バーズですが、「ロデオの恋人」以降は、それほど大きなヒットアルバムを出すこともなく73年に解散します。60年代後半を通して時期によってサウンドも大きく異なるし、なんとなく掴み所がないバンドであることは確かです。しかし、在籍していたメンバーのその後の経緯を見れば、彼らがアメリカン・ロックの歴史にいかに大きな1ページを拓いたかがわかります。<br />
　まず、グラム・パーソンズは「ロデオの恋人」発表直後に、クリス・ヒルマンと共にバーズを脱退、クラレンス・ホワイト、マイケル・クラークらとフライング・ブリトー・ブラザースを結成します。ちなみにフライング・ブリトー･ブラザースには、後にイーグルスを結成するバーニー・リードンも参加しました（このあたりの経緯は以前、グラム・パーソンズを取り上げた時にも書きました）。デヴィッド・クロスビーは、バーズ解散後にバッファロー・スプリングフィールドのメンバーらとともに、クロスビー、スティルス、ナッシュ＆ヤングを結成します。クリス・ヒルマンは、フライング・ブリトー・ブラザーズの解散後にスティーヴン・スティルスとともにマナサスを結成。さらに1974年に、アル・パーキンス、リッチー・フューレイ、J.D.サウザーらとともにサウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成します。</p>

<p>　いずれにしても、ザ・バーズというバンドがグラム・パーソンズと出会って生まれた「ロデオの恋人」というアルバムは、ロックの歴史に残る名盤であると同時に、私自身が大好きなアメリカン・ルーツミュージック系のロック・サウンドの原点とも言える1枚です。</p>]]></description>
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<category>音楽</category>
<pubDate>Thu, 07 Apr 2011 15:20:43 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>真夜中に聴きたい50曲 (26)</title>
<description><![CDATA[<p>(26)<strong>Miranda Lambert</strong>「<strong>Love Your Memory</strong>」（ミランダ・ランバート：ラブ・ユア・メモリー）</p>

<p>　ミランダ・ランバートは1983年生まれですから、まだ27歳です。このシリーズでとりあげるミュージシャン、シンガーの中ではずば抜けて若いし、私の音楽遍歴との接点はまったくありません。しかし、数年前に偶然手にした彼女のアルバムは、まさに私の音楽の好みのツボにはまりました。まだ3枚しかアルバムを出していませんが、その3枚目のアルバム「Revolution」の中の「The House That Built Me」が、昨年末の第53回グラミー賞で「Best Female Country Vocal Performance」に輝き、彼女は晴れてグラミーシンガーの仲間入りをしました。</p>

<p>　今回取り上げた「<strong>Love Your Memory</strong>」という曲は、2005年に発売された事実上のデビューアルバム「<strong>Kerosene</strong>」に収録されている曲です。グラミーに輝いた「Revolution」もむろんいいのですが、何と言っても私は、ミランダ・ランバートというシンガーを初めて知ることになったアルバム「Kerosene」が好きなのです。このアルバム、数年前からもう何十回聴いたかわかりません。<br />
　彼女のサウンドは、強いて言えばオルタナ・カントリーとかコンテンポラリー・カントリーというジャンルに属するのでしょうが、アメリカン・ルーツミュージックを根っこに持つ、ピュアなアメリカンポップスだと思っています。よく透る伸びやかな歌声ながら、曲によってはルシンダ・ウィリアムスを彷彿とさせるドスの効いたシャウトも聞かせてくれる、実に表現豊かなシンガーです。<br />
　また、「Kerosene」というアルバムに参加しているミュージシャンも錚々たる顔ぶれで、ベテランギタリストのリチャード・ベネットや、昨今この手のアルバムには必ず顔を出すバディ・ミラーおじさんもボーカルで参加しています。「Kerosene」には、ロック志向の強い曲から、ピュアなブルーグラスまで多彩なサウンドが散りばめられていますが、今回選んだ「Love Your Memory」はアルバム最後のトラックで、しっとりとしたバラード調の恋の歌で、アコースティックギターの響きが美しい曲です。</p>

<p>　さて、ミランダ・ランバートと言えば、昨年発売されたロレッタ･リン（Loretta Lynn）へのトリビュート･アルバム「Coal Miner's Daughter: A Tribute to Loretta Lynn」の中の「Coal Miner’s Daughter」という曲で、シェリル・クロウ（Sheryl Crow）とともにロレッタ・リン本人と競演しています。このアルバムは、ルシンダ・ウィリアムスやスティーブ・アールなど様々なカントリーシンガーが参加した、なかなか聴き応えがあるアルバムです。</p>

<p>　話は変わりますが、ロレッタ・リンと言えば、彼女の生涯を描いた「Coal Miner’s Daughter」という伝記映画があります、邦題が「歌えロレッタ愛のために」で、これはちょっとしらけるのですが、非常にいい映画です。映画の中でロレッタ・リンを演じたシシー・スペイセクは、この映画で1980年に第53回アカデミー賞の主演女優賞を受賞しました。ロレッタの夫を演じているのが、あのトミー・リー・ジョーンズ、そしてザ・バンドの、あのレヴォン・ヘルムが出演しているのも特筆モノです。妙な邦題に惑わされることなく、機会があればぜひ見て頂きたい、とてもいい映画です。</p>]]></description>
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<category>音楽</category>
<pubDate>Wed, 06 Apr 2011 18:11:50 +0900</pubDate>
</item>
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<title>漠然とした不安</title>
<description><![CDATA[<p>　間引き運転の通勤電車は今日も満員でしたが、待たされても混んでいても誰も文句を言わず、サラリーマンやOLが黙々と職場に通っています。職場では1日中FMラジオを聴いていますが、番組のパーソナリティが殊更に「元気に」とか「明るく」を連発しています。聴いていると、かえって暗い気持ちになります。まあ、東京は全体的に重苦しい沈黙に覆われているような気がします。あえて最悪の事態を考えないようにしているのでしょう。不安を持つ人々は、精一杯自制心を働かせて、日常生活を維持しているのでしょう。<br />
　昨日明らかになった千葉県八千代市の浄水場の汚染隠しに代表されるように、政府もお役所も全ての情報をリアルタイムで公開する気は全く無いようです。私たちは、何が不安だと言って、情報を全て得られないことがいちばん不安なのです。買い占め、買いだめをするな…と言っても、政府やお役所が八千代市のような情報隠しをやっている限り、絶対に無理です。基準値以下であっても福島県や茨城県、千葉県産の野菜を全く食べない人が多いことを「風評被害」だといって怒る人がいますが、見当違いです。実は汚染されているのにそれを発表していない、意図的に全ての産地の土壌や野菜を検査していない…と誰もが疑心暗鬼になっているから、安全を見越して食べないだけのことです。<br />
　食品から検出される放射能の安全基準値、水道水の安全基準値を、原発事故後に1桁書き換えたことを、今や誰もが知っています。政府がこんなデタラメをやっているから、誰も野菜を食べなくなるし、メネラルウォーターを買い占めたりするのです。</p>

<p>　また、常にネットで情報を収集し、移動中もスマートフォンを離さず、twitterをはじめとするソーシャルメディアを駆使して有益な情報を交換している「情報強者」なんて、実はホンの一握りの人間の話です。年配者を中心にネット環境とは無縁の人間もたくさんいるし、若くて携帯電話やスマートフォンを所有してSNSで遊んでいる人であっても、実は「情報弱者」の方が多いことは誰でも知っている通りです。社会階層という言い方が差別的だと非難を受けるのならば、「情報社会階層」なるものが存在することは、まったく周知の事実です。その情報社会階層で低いところに位置する人間、すなわち「情報リテラシーが低い人間」が、実は社会の大半を占めているのが現実です。そういった階層に属する人たちが、水やトイレットペーパー、ガソリンなどを買い占めすることを、情報リテラシーが高い人間、または自分で高いと思っている人間が、上から目線で批判しているのをTwitter上などで見かけると、ムカつきます。情報リテラシーが低い上に、政府やお役所からまともな情報を得られなければ、不安になって自己防衛の行動に走るのは当然です。</p>

<p>　実際のところ、いくら放射能を不安に思ったところで、東京脱出なんて大半の人にとっては不可能です。いや東京どころか、福島原発から50km～60km圏に住む100万人以上の人々だって、大半が自主避難なんてできないでしょう。仕事のこともあるし、子供の学校のこともある、何よりもお金の問題があります。住んでいる場所から長期間離脱できる人は、よほどお金に余裕がある人か、住む場所に関係なく仕事ができる「高いスキルを持つ自由業」「特殊技能を持つ人」ぐらいでしょう。世間の90％以上の人は、住む場所を簡単に離れることはできません。</p>

<p>　さて、原発の事態は深刻です。専門家も全く先が見えない状態です。大量の放射性物質が大規模に拡散する破局的な事態が起こるのか起こらないのか、どうすれば事態が収拾へ向かうのか、また事態の収拾に何年かかるのか、誰もわからないのが現実です。今回の事故とその後の経緯は、人類が初めて経験するものです。<br />
　例え破局的な事態を回避できたとしても、当面の間、少なくとも数ヶ月以上は「放射能ダダ漏れ」状態が続きます。ダダ漏れ状態が年単位で続くかもしれません。いくら「直ちに健康に影響が無い」とはいえ、累積して浴びる放射線の量は、今後も徐々に増えていくのです。被災地の近くだけでなく、関東一円に済む数千万人の人々の間で、不安感は今後さらに増幅していくでしょう。外出や遊びを控える人が増える中、経営的に立ち行かなく飲食店や、倒産する中小企業も増加するでしょう。被災地でなくとも、収入が減る人、収入が途絶える人がどんどん多くなってくるでしょう。景気後退もあって、将来の生活に対する不安感は、今後日本中に広く蔓延するはずです。</p>

<p>　今はまだ、震災からあまり間が無い時期でもあり、震災の被災者を思いやる気持ちも強いので、誰もが黙々と日々の不安に耐えて生活しています。停電に文句を言う人もほとんどいません。<br />
　しかし、震災から日が経つにつれて、震災のショックも薄らぎ、さらに避難所などに暮らす悲惨な被災者の状況も、多くの人にとって「日常のニュース」と感じるようになってくるでしょう。そうなった時が怖いのです。この東京を覆っている重苦しい不安感が、どのような形で放出されるのか、非常に気になります。<br />
　原発が破局的な事態を迎える以前に、社会不安から何かが起こる…、私はそんな恐れを抱いています。既に被災地での犯罪の多発が報告されていますが、東京を含む関東圏の治安も、今後悪化するかもしれません。<br />
　そして私は、こうした心配が杞憂で終わることを、心底望んでいます。</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/03/post_40.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Thu, 31 Mar 2011 18:53:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>普段どおりの生活</title>
<description><![CDATA[<p>　依然として情報が不足しています。私が政府に要求したいことは基本的に、<a href="http://cnic.jp/modules/news/article.php?storyid=1034"><strong>CNICのこちらのページ</strong></a>に書かれていることと同じです。そして、twitterでも書きましたが、フランス、ノルウェーなど海外の気象関係機関が放射性物質の飛散シミュレーションを公開しているのに、日本政府が緊急時環境線量情報予測システム（SPEEDI）のシミュレーション結果を公開しないのは実に不可解です。</p>

<p>　東京・練馬区に住み、毎日池袋のオフィスに通っている私は、当然ながら現在の状況では、まだ東京から避難するつもりはありません。東京でも昨日来、数日前の3倍程度の放射線量が計測されていますが、まだ健康に大きな害をもたらすレベルではありません。クライアント企業との連絡も今のところ通常通りですし、特にキャンセルされた仕事も無い以上、仕事を続ける義務があります。自分の家庭でも、特に買い占めや買い溜めもしていません（スーパカブだけはガソリン4.5リットル満タンにしておきました）。<br />
　ただ、今後、福島第一原発で核燃料の溶融（メルトダウン）、大規模な爆発、使用済み燃料プールからの放射能大量放出…といった事態に至り、東京上空に大量の放射性物質が降り注ぐという状況が予測される場合には、当然ながら東京から脱出することになります。こうした事態がいつ訪れるかわからないので、準備だけでもしておこうと考え、いくつかのことを実行しています。<br />
　まずは、仕事関係です。私の仕事は基本的にネット環境があればどこでもできるのですが、社内のメイン端末内の大量のデータをポータブルHDDにバックアップして持ち出せるようにしています。また、ノートPCへのデータ移行も進めており、基本的には2台のノートPCと数台のポータブルHDDを持ち出せば、日本中どこでも仕事ができるように準備しています。<br />
　クライアントのシステムを預かっているサーバーは、富山のデータセンターと東京のデータセンターに分散されています。当然全てがRAID構成で、さらに別のHDDにもバックアップする形になっています。しかし、特に東京データセンター分は、長時間大規模停電も含めて今後何が起こるかわからないので、オフラインのバックアップを作ろうとダウンロード作業も始めました。</p>

<p>　個人的には、移動中でも飲んでいる時でもリアルタイムで情報を得られ、家族も含めて誰とでも連絡を取れるように、バッグの中に複数の端末を入れて持ち歩いています。具体的には、ドコモ回線のWiFiルーター、iPod Tuch、au回線のIS05、ドコモのガラケーの3種類と、外部充電装置を持ち歩いています。先日の震災直後の徒歩帰宅体験以来、バッグも持ち歩きやすいようにKELTYの18リットルのデイパックに変えた他、靴もロックポートのウォーキングシューズを履くようにしています。デイパックの中には、バンドエイド、抗生物質、傷薬を入れ、さらにラジオ、LEDライト、予備電池、GERBARの小さなナイフも入れています。</p>

<p>　さあて、こんな生活がいつまで続くのでしょう。でも、毎晩飲むのはやめません。新刊書を買って読むのもやめません。できるだけ普段どおりに生活し、消費して、経済の活性化に少しでも貢献しようという気持ちは変わりません。</p>]]></description>
<link>http://www.pit-japan.com/ws30/mt3/archivestop/2011/03/post_39.html</link>
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<category>日常生活</category>
<pubDate>Tue, 22 Mar 2011 12:18:28 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>震災後の日常雑感　その2</title>
<description><![CDATA[<p>　ネット上の情報だけでなく、様々な企業（電力会社や原発製造関連企業も含め）に勤める人間や医師などの個人的な交友関係からも、可能な限り情報を集めていますが、現時点はまだ自分自身がどの段階でどんな行動をとるべきか判断できません。昨日以降の北風が強まる状況の中では、さすがに不安な気持ちも強まってきます。また、今朝のニュースで流れた「6400本の使用済み燃料」の話も含めて、情報がきちんと出てこない状況には苛立ちます。「この程度の放射線なら健康に害が無い」という言葉よりも、「その量をどれくらい長期的に浴び続けると健康に害が出るのか」、そして「現在の対処方法が上手くいって事態が収束したとき、どの範囲の人が、どの程度の期間、どの程度の放射能を浴びるのか」、さらには「現在の対処方法がうまくいかなかったときはどうなるのか」「妊婦や子供への影響はどうか」…といった本当に知りたい情報は、公的には全く流されません。<br />
　こうなると、200km以上離れた東京に住んでいる自分自身の話は置いておくとしても、ほぼ50km圏にある郡山市や福島市、二本松市、ほぼ100km圏に入る会津若松市、喜多方市、そして政令指定都市である仙台市、山形市、米沢市あたりに住む人々、さらには東京と較べればかなり原発に近い150km以内にある水戸市や宇都宮市あたりに住む人たちですら、情報不足による不安と苛立ちが募っていると考えられます。<br />
　多くの欧米系メディアの論調は、事故の現況から見て20Km圏の避難では不十分、最低でも半径50Km、半径100kmといった圏内の住民は避難すべき…が主流です。では、なぜ政府は50kmあたりまでの避難計画を実施しないのでしょうか。政府も、アドバイスする専門家も、最悪の事態を想定しても20km圏で安全だと考えているわけではないでしょう。できればもっと広範囲に避難を進めた方がよいとわかっているかもしれません。<br />
　しかし、原発災害の際の避難対象地域は、現行の国の指針では、基本的に原発から半径10km圏内を想定しているとのことなので、政府にも東電にも今回の事故の規模自体が想定外で、実は半径20km圏以上、ましてや50km、100kmの避難計画などは、もともと存在しなかった可能性があります。さらに、50Km圏なら100万人、100km圏なら250万人の人が避難することになるわけで、そもそも現在の政府の能力では、移動手段も他県への受け入れ態勢も構築することが不可能な事態なのかもしれません。加えて、100km圏には、震災、津波の避難者がたくさんいます。避難所や被災地にはまだ食料も燃料も十分に届いていないというのに、そうした人たちを含めての大規模避難計画を立てることは、今の政府の行政能力では不可能のようにも感じます。<br />
　どうも私たちは、根本的な行政能力、そして危機管理面での能力が大きく欠如した不幸な国に生まれてしまったようです。別に民主党が政権党でなくても同じだってでしょう。ここで政府や東電を批判・非難しても別に事態がどうなるわけでもないので、こうなると「自己責任」と「助け合い」によって国民が自らの命を救うしか道はありません。<br />
　東京でも自己判断で避難を始める人が増えててきました。西へ向かう新幹線や飛行機はほぼ満席状態だそうです。今後は、国が新幹線や飛行機の座席販売を管理し、妊婦や子供の避難を優先する手法をとる必要があるかもしれません。<br />
　オフィス近くの100円ショップの店頭で、箱に山積みした状態で放射能除けのビニールカッパを販売していました。あまりに凄惨な津波被害の光景に加えて、近所で放射能除けのビニールカッパを売っている光景を、自分が生きているうちに見ることになるとは思ってもいませんでした。</p>]]></description>
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<pubDate>Fri, 18 Mar 2011 13:49:08 +0900</pubDate>
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