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都市生活者であり続けること


 どうも私は精神が軟弱に出来ており、「文明」の恩恵の下でしか生きていけない人間のようです。10年ほど前から「田舎暮らし」や退職後の海外移住などがブームですが、私はできれば東京のような大都会の、しかもその中心で暮らし続けて行きたいのです。海外に移住するとしても、インターネットが使えて、なおかつ最新流行の音楽や映画などさまざまなメディアにいつでも接することができる場所、さらに人の多い都市でなくては嫌です。カナダやオストラリアの大自然の中には、住みたくありません。



■「文明」って何?

 もっとも「文明」という言葉を、何か人間の営みとして「高度」な部分を指して使っているわけではありません。「文明」に対する言葉として「未開」があります。「文明」と「未開」には、いったいどんな違いがあるのでしょうか?
 「悲しき熱帯」によって「未開」の本質を明かしたのはレヴィ・ストロースでした。彼が未開と文明の背後にある「構造」が同じである事実を明らかにしたのは、非常に痛快なことです。当時、自らの「文明」を誇っていたヨーロッパの人々は、アマゾン奥地の未開の民族と自分達が、社会構造の背景として、質的に全く同じものを持っていることを知って愕然としたでしょう。いい気味です(?)
 …ここで構造主義の話をしようというわけではありません。つまり、私がこれからもずっと甘受したいと思っている「文明」なんて、非常に脆弱なものです。ましてや最先端のエレクトロニクス機器やインターネット、トランスポーテンション手段など、大きな視点から見た人間の営み全体の中では、たいしたものではありません。ましてや先端メディアだのアートだの音楽だのと言っても、しょせんは砂上の楼閣のようなもの。
 しかし、こうした文明に対する認識を持った上で、なおかつ私は現代文明が好きです。自ら「砂上の楼閣」と言った先端メディアやアートや音楽、そして新刊書籍やインターネットを、日常生活から捨てる気にはなりません。アウトドアも自然も大好きですが、日常の生活基盤は環境のよい大自然の中ではなく雑然・渾然として薄汚い都会の中で暮らしたいと思っています。

■物質文明につかるのは「悪」?

 昨今、多く語られる環境問題の中で、「物質文明を見直す」必要性について語られる機会が増えています。「物質文明=悪、自然と一体化したシンプルライフ=善」みたいな考え方がもてはやされています。
 こうした考え方は、以前からサブカルチャーとして存在していました。1960年代の後半のアメリカで盛り上がったビートニクス・ムーブメント、さらには1970年代のヒッピー・ムーブメントでも、物質文明に対する問いかけがなされました。さらに古くは、19世紀に書かれたH.D.ソーローの「ウォールデン−森の生活」が、ある種の人々にとってはバイブルのように信奉されています。
 私は、「物質文明を見直す」ことと「人が人であるための精神を持ち続けること」との関連を認めますが、だからといって「物質文明を捨てなければ、現代における人の生き方や精神性について本質的なことはわからない」とは、全く思ってはいません。
 TVの特番などで「サラリーマンを辞めて家族で田舎に引っ越して来てから、家族の結束や近所との付き合い、大自然の恵みの有難さ…など、本当に人生で大切なものがよくわかった」、というようなコメントをする人達がたくさんいます。でも、こういった「人生で大切なこと」は、別に田舎で暮らさなくとも、大都会の片隅で生きていたって、わかる人にはわかるはずです。物質文明に囲まれていては物質文明のネガティブな意味はわからない…というのも妙な論理だし、都会に暮らしているとそうしたことがわからないなんて、単に「鈍いヤツ」に過ぎません。
 第一、私は物質文明なるものをネガティブには考えていません。人間の精神性と物質文明とは、けっして背反するものではありません。身の回りにある「便利なもの、楽しいもの」を素直に受け入れて、その上でいろいろな価値観や物事の本質について考えていけばよいことだと思っています。  パソコンやPDA、携帯電話などはむろん、eggyとかVN-EZ5のようなMPEG-4動画カメラだって先端エレクトロニクス製品の代表のようなものです。こうした「物質文明の恩恵」で遊ぶのはとても楽しいことです。またフラリと散歩に出て封切り直後の映画を見られたり、好きなクラブで夜遊びしたり、こういう生活が大好きです。さらに、いろんなメディアや大量の情報に囲まれて生活する方が、私はかえって落ち着きます。
 こんな大都会の真ん中で生活していても、自然や地球環境に思いを巡らせることは十分にできると思っています。

■「本」さえあれば…

 私は、通勤電車の中でも、騒々しい駅の待合室でも、喫茶店でも、公園のベンチでも、一冊の文庫本さえあれば、たちどころに「別の世界」に入ることができる、非常に便利で安上がりな人間です。多忙で騒々しい都市生活を続ける日常の中で、ありとあらゆる精神世界に簡単に入って行けるのです。
 別に「高尚な思想書」などを読んでいるわけではありません。たいていがミステリーやノンフィクションです。例えば、ついさっきトマス・H・クック「心の砕ける音」を読了しました。トマス・H・クックと言えばご存知「緋色の記憶」「死の記憶」「夏草の記憶」「夜の記憶」と続いた「記憶シリーズ」で、ありとあらゆる書評において絶賛を博したミステリー作家です。私は、「記憶シリーズ」よりも、初期の作品である「熱い街で死んだ少女」「過去をなくした女」「夜訪ねてきた女」の「フランク・クレモンズ三部作」の方が好きです。中でもニューヨークを舞台にした「過去をなくした女」は非常に好きな作品です。大都会で死んだ1人の女性の知られざる過去を溯るストーリーは、きわめて内省的な行動をとるクレモンズの日常と相まって、非常に引き込まれるものでした。最新刊の「心の砕ける音」は、「記憶シリーズ」よりもこの「過去をなくした女」を彷彿とさせる作品であり、ミステリーというよりも小説としても十分に優れたものです。
 「たかがミステリー」に過ぎないこの本を読みながら、私は今世紀初頭のアメリカのメイン州の片田舎を彷徨っていました。吹雪が吹き荒れる深夜の港町の荒涼とした光景の中を歩いている気持ちになったものです。

 あらゆるメディアや刺激に囲まれた都市生活、喧騒の中の日常、でも1冊の本があれば、どんな精神世界にだって入っていけます。