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短編小説    CCDの来た道

 アフリカ最大の湖、ビクトリア湖。水面に沈む夕日が美しい。小舟に乗った漆黒の肌の漁師が、ゆったりとした動作で網を投げる。

 私は、ある一人の男の足跡を辿ってアフリカの旅を続けている。彼の存在を知ったのは、まったくの偶然だった。
 出版社に勤務する私は、十九世紀イギリスの海外植民活動とそのきっかけとなった数々の探検家を描いた本を編集することになり、その資料調査のために大量の文献を漁っていた。中でも当時ロンドンのセビルロウにあった英国王立地理学会は、ナイル源流の探索、アフリカ中央部への探検、中央アジア砂漠地帯への探検などを後援し、特にアフリカ探検については幾多の後世に残る探検家が未開地についての貴重な情報をもたらした。また彼らの数多くの探検が、後の大英帝国のアフリカ植民政策の基盤となったことでも知られている。
 この英国王立地理学会の関連文献の中で、かの有名なリビングストンやスタンレーに関する記録を読んでいる時、その男に出くわした。

 リビングストンが、アフリカ中央部で消息を絶った時、スタンレーがリビングストンを追ってアフリカ奥地に分け入り、後にザイール川源流地域で劇的な出会いをする話は、つとに知られている。私自身も、子供の頃に「リビングストン探検記」を読んでこの出会いのシーンに感動した覚えがある。ところが、この話にはもう一人の知られざる人間が絡んでいたのだ。

 彼の名は、チャールズ・C・ディクソン。ロンドン・デイリー・テレグラフ紙の記者で、特に際だった記事をモノにしたことはないが、当時のロンドンの下町ソーホー地区を歩き回っては、街ネタを鮮やかな人情噺に仕立てて人気のあった陽気な記者である。ディクソンは、リビングストンが消息を絶った時、いろいろな経緯があってスタンレーが出発する前にリビングストンの捜索に向かったのである。デイリー・テレグラフ紙の上層部からの命によるものだったが、何故彼に白羽の矢が立ったのか、詳細はわからない。ただ、記録によるとディクソンの出発前の夜には、下町にあるパブに友人が集まって盛大な送別会を行なったとある。
 船でアフリカ東海岸のモガディシオに到着したディクソンは、リビングストンに関する情報を求めながら、少数の現地人ガイドとともに内陸部へと向かった。ほぼ二週間ごとに本国への連絡と記事を送り、そして四ヶ月目に現在のウガンダ中央部あたりで消息を絶った。彼が送ってきた最後の記事には、ビクトリア湖らしき大きな湖の話が書いてあったという。
 彼が探し求めたリビングストンはそれから数ヶ月後にスタンレーによって救出されたが、チャールズ・ディクソンはそのまま行方不明となった。スタンレーは英雄になり、ディクソンは仕事帰りにパブで飲むジョッキ一杯のビールを懐かしみながら密林に消えた。
 密林に消えたディクソンという新聞記者に何故か強く惹かれた私は、彼の歩いた道を少しでも辿ってみようと、休暇をとってアフリカに行くことにした。

 私は、パリを経由してケニアの首都ナイロビに入り、自動車をチャーターしてビクトリア湖へと向かった。そしていま、ビクトリア湖のほとりに立っている。  ディクソンは、この海のように広い、光る湖面を見ただろうか。

 チャールズ・C・ディクソン、ロンドンの下町では、親しみを込めて「C・C・D」と呼ばれていた。

 かつてナイルの源流と信じられていたビクトリア湖。大粒の真珠のようにきらめくアフリカ内陸の海。

 ここは、「CCD」の来た道。


   ※ この物語はフィクションです。歴史上の事実及び実在した人物とは全く関係がありません。むろん、固体撮像素子(CCD)とも無関係です。


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